海のほとり

2002/06/21 パシフィコ横浜
砂利が海岸を埋め尽くす寂れた海辺の町が舞台。
2001年カンヌ国際映画祭カメラドール受賞作。by K. Hattori

 100年前はフランスでも指売りのリゾート地だったと言うが、海岸の砂利を採取する工場ができてからはすっかりその面影を失ったノルマンディ地方の海辺の町カイユ・スル・メール。だがその砂利採取場も、今では産業構造の変化で時代から取り残されつつある。創業者の社長一族も会社を買収され、お飾りの雇われ社長職に甘んじている。そんな寂れた町でも、夏になれば比較的大勢の人で賑わう。バカンスシーズンになると、町を離れて都会で暮らしている人々が次々に里帰りしてくるのだ。

 物語は夏に始まり、秋から冬を経て、再び夏の海岸へと戻ってくる。海岸で映画の主人公は、夏になると海辺で監視員の仕事をしているポールだ。映画はポールを軸に、その周辺人物を描いていく。年金暮らしのくせに、その金をすべてカジノのスロットに注ぎ込んでしまう母ローズ。カジノで働く姉夫婦。恋人で砂利工場で働くマリー。友人のカメラマンとその恋人。映画の中では特にポールとマリーの物語と、母親ローズの物語に多くの時間が割かれている。

 物語は小さな町の中だけで進行するが、登場する人間は3種類だ。ポールやローズ、姉夫婦のように、町での暮らしに満足し、寂れた町にへばりつくように暮らしている人々。社長の未亡人やカメラマンのように、夏になれば町に戻ってくるが、普段は大きな都会で暮らしている人々。そしてマリーや砂利工場の社長アルベールのように、いつかは町から抜け出したいと思っている人々がいる。本当はこれ以外にも「町から去ったまま帰ってこない人」というのがいるはずだが、それは町だけを舞台にしている限り映画に登場しようがない。ただし映画の最後には、そうした人々の存在を誰もが意識するようになる。

 いろいろな事件があって、何人かの登場人物が町から消える。夏が去り、翌年にまた夏が来ても、その夏は去年と同じ夏ではあり得ない。いつもと同じ顔ぶれ。いつもと同じような会話。でもそこには去年あったはずの何かが失われ、去年にはなかった何かが付け加わっている。僕は最初この物語を、小さな町が少しずつ死んでいく話だと理解した。だが監督・脚本のジュリー・ロペス=キュルヴァルは、必ずしもそうした意図でこの映画を作ったわけではないらしい。

 小さな町は生きている。姿を変えたとしても、それは「死」を意味するわけではない。町の中に生じる小さな変化は、いわば生物の呼吸のようなものだ。何かが吐き出されれば、次には何かが吸い込まれる。何かを失うことで、その町は次に何かを得ることができる。

 ローズが社長未亡人と和解したり、夏の海岸にカメラマンの恋人が妊婦姿で現れたりすることは、町に生まれる新しい何かを象徴している。中国の道教では、蝶になることが理想の生き方だという。蝶は毎年同じように現れるが、それは毎年新しく生まれた蝶なのだ。

(原題:Bord de mer)

第10回フランス映画祭横浜2002
配給:未定
(2002年|1時間28分|フランス)

ホームページ:http://www.unifrance.jp/yokohama/

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