親分はイエス様

2001/07/16 東映第2試写室
ヤクザが回心してキリスト教の牧師になったという実話を映画化。
面白いモチーフなのに映画はひどくつまらない。by K. Hattori

 現役のヤクザたちが自分たちの生き方を悔い改め、キリスト教への信仰に目覚めてやがて熱心な伝道者になる。「どんな悪人でも人生をやり直せる。私を見なさい!」と呼びかけるその姿に人々は感動し、同じように回心するヤクザたちが次々に現れやがて“ミッション・バラバ”と呼ばれるグループを作るに至る。これは実話である。この映画はミッション・バラバが書いた「刺青クリスチャン」という本をもとにしたヒューマンドラマ。バラバというのはイエス・キリストが磔刑になる直前、イエスの代わりに釈放された強盗の名前。釈放されたバラバのその後は聖書にも記述がないが、ペ−ル・ラ−ゲルクヴィストは釈放後のバラバをテーマにして小説を書き、アンソニー・クイン主演で映画化もされている。バラバはその後、キリストの愛に目覚めて回心するのだ。

 監督は斎藤耕一。脚本は斉藤監督と松山善三。主演は渡瀬恒彦、奥田瑛二、渡辺哲、中村嘉葎雄など。ヤクザが回心してキリスト教の牧師になるという話は面白いし、それが映画になると聞いてすごく期待していたのだが、実際に映画を観てみると大いに失望させられてしまった。そんなに過大な期待をしていたわけではないのだが、そもそもこの映画は、テーマの把握の仕方が間違っているとしか思えない。「ヤクザが信仰に目覚めて回心する」という話なのに、この映画は信仰の側面を排除して回心の理由を「妻の献身的な愛」にすり替え、それによって映画自体がいびつにねじ曲がってしまったと思う。この映画がなぜ「信仰」をそこまで排除したがるのか、僕にはさっぱりわからない。作り手側が持つ一種の宗教アレルギーだろうか。例えばこの映画の中には、聖書の台詞が一言も出てこない。主人公や家族が洗礼を受ける描写もない。十字架や聖書はお札かお守りのように扱われていて、それが何を意味しているのか映画を観ている人にはさっぱりわからないだろう。たぶん映画を作った人たちも、十字架や聖書、イエスが人類に与えた救いの意味などをまったく理解しないまま映画を作ったのです。

 イエスは『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(マタイ16:24)と言っている。この映画の主人公はその言葉に文字通り従うことで、キリストに救われたいと願うのです。十字架行進は単なるパフォーマンスじゃない。自分が信じていた組織に裏切られ、ぎりぎりまで追いつめられてボロクズのように傷ついた男が最後にすがりついたのがキリスト教信仰であり、その信仰に彼を導いたのが妻の献身的な愛だったのです。しかしこの映画では、主人公の行動が自分の信仰や贖罪を保証するパフォーマンスになっている。それは『偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる』(マタイ6:5)とイエスが言うものに通じるのではないか。十字架行進の中で叫ばれる祈りの言葉が、主人公たちの血を吐くような叫びに聞こえないところがこの映画の欠点であり、最後まで話が嘘くさくなる原因だと思う。

2001年9月1日公開予定 新宿東映パラス2、銀座シネパトス他 全国公開
配給:グルーヴコーポレーション 配給協力:アースライズ

ホームページ:http://www.wlpm.or.jp/event/index.htm

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