浮世物語

2001/06/01 徳間ホール
広島の原爆をモチーフにした映像による散文詩。
デジタル技術を使った映像のコラージュ。by K. Hattori

 CMや展示会映像の世界で多くの作品を発表しているアラン・エスカルが、はじめて作った劇場用作品。上映時間は24分と短いのだが、映像的にはかなり見応えのある作品に仕上がっている。ひとりの男が自分の少年時代を回想すると、そこには夏の日の広島。やがて少年の身に、原爆の惨禍が降りかかる。これに平安時代の貴族女性の姿や、源平時代のような鎧武者たちの合戦シーンがオーバーラップしてくるという構成。中心にあるのは、巨大な暴力が平和な暮らしや歴史や文化を徹底的に破壊してしまう、その凄まじい破壊力だ。特にストーリーというものはなく、映画はイメージの断片を積み重ねてひとつの大きなイメージとメッセージを作り上げていく。映像による散文詩みたいなものだ。この映画に一番近いのは、『ザ・セル』に登場した精神世界のイメージかな。

 タイトルの「浮世」は日本語だと「憂き世」のことで、苦渋に満ちたこの世界のこと。極楽浄土のような別世界に対して、我々が暮らしている「この世」のことであり、同時にそれは夢や幻のようなはかないものでもある。僕はフランス語がまったくわからないのだが、この映画の英語タイトルは『The Tale of the Floating World』になっているようだ。「浮かぶ世界」と「浮世」はちょっと違うようだけれど、こうすることで日本語の「浮世」という言葉が持っている現実の生々しさが薄れ、「この世界とは別のどこか」「この世界の現実が投影された別の世界」という感じがしてくるかもしれない。確かにこの映画に描かれるのは、現実そのままではない。原爆の災禍はダンサーたちによる舞踏として表現されているし、被災地にはなぜか大仏の首が転がっていたりする。

 この映画の時代考証が間違っているという批判があるらしいのだが、ひょっとしたらこの作品は現実の「広島」と関連づけて考える必要がない映画なのではないだろうか。ここで描こうとしてるのは、原爆に象徴される「暴力」なのだ。そう考えると、平安時代の女性が登場することも、鎧兜の武士たちが血みどろの戦闘を繰り返す描写も、「暴力」という点ですべてが結びつく。ここに登場するのは1945年の広島に似たどこかであり、映画に登場するのはすべて、日本に似たどこかに過ぎないのかもしれない。映画を観ながら、ふとそう考えた。

 映画に登場する人物はすべてブルーバックの前で演技し、それを背景と合成して映画を完成させたのだという。編集に使われたのは“インフェルノ”というマシンで、ここでは動画も静止画もCGも、およそ映像素材と名の付くものはすべて取り込んで加工編集ができるらしい。完成した映像は若干画質が荒いような気もしたが、それより重要なのは、ここで作り出されたイメージの奔放さと、圧倒的なボリューム感。最近のDV編集などを考えると、将来はこうしたレベルの映像が個人のパソコンでも作り出せるようになるのかもしれない。

 まだ劇場公開の予定がまったく立っていないらしいのだが、映像に興味のある人には面白い映画だと思う。

(原題:Le Conte du Monde Flottant)

公開時期未定
配給:ミストラルジャパン
ホームページ:http://www.mistral-japan.co.jp/


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