ある映画監督の生涯

2001/04/03 アスミックエース試写室
新藤兼人監督が巨匠・溝口健二の足跡を追うドキュメンタリー。
これは映画黄金時代への挽歌ではないのか。by K. Hattori


 黒澤明や小津安二郎と共に海外でもその名を知られている日本の大監督・溝口健二の生涯を、新藤兼人監督が追いかけるドキュメンタリー映画。タイトルには小さく「私家版」という文字が添えられている。なぜ「私家版」なのかと思ったのだが、これは映画を全部観終わってみると「なるほど」と納得できた。この映画は多くのインタビューを重ねて溝口健二の人となりや業績を描き出す構成になっているが、そこにはインタビュアーである新藤兼人監督の意向や思い入れがかなり入り込んでいる。自由に相手の話を聞くというより、新藤兼人監督にとって興味のある事柄を根ほり葉ほり聞き出して、新藤兼人監督が思い描いている溝口健二像を肉付けしていくという傾向が如実に現れているのだ。これは客観的な伝記映画ではない。あくまでも新藤兼人という映画監督の目を通して描かれた、ひとりの映画監督像なのだ。

 溝口健二が亡くなったのは1956年(昭和31年)で、この映画が製作された1975年(昭和50年)には20年近い時代の開きがある。それでも関係者のほとんどはまだ存命で、溝口健二の若い頃の話やスタジオでの演出ぶりなどについて貴重な話を聞かせてくれる。ここに登場する人たちのほとんどは、今ではみんな亡くなってしまった。この映画が作られてからもう26年。溝口監督の死からこの映画製作までの距離より、この映画が製作されてから今までの距離の方が長いのだ。亡くなっている人が多いのも当然か……。

 新藤兼人監督は1934年(昭和9年)に新興キネマ京都撮影所に入所して、現像部のフィルム洗いから映画人生を始めた人。自己流にシナリオを書いていたが、1937年に溝口監督の『愛怨峡』に美術助手として参加したのが溝口健二との直接の出会いになる。その後シナリオの指導を受けるなど、新藤兼人監督にとって溝口健二は師匠にあたる人だ。『ある映画監督の生涯』という映画を新藤兼人が作るにあたっては、個人的にも親交のあった溝口監督について、一度きちんとまとまった記録を作っておかなければならないという気持ちがあったのだろう。新藤監督は(おそらく同じ取材をもとに)溝口監督の評伝「ある映画監督」という著書も書いている。

 溝口監督が亡くなった昭和31年は、まだ映画産業も右肩上がりの成長で、彼が重役の席にあった大映も絶好調だった。溝口健二はサイレントからトーキーに向かう「映画の青春」の中で育ち、戦後の「映画黄金時代」の真っ只中で、映画の凋落と終焉を見ることなく死んでしまう。しかしこの映画を作っている新藤兼人監督は、その後の映画産業の凋落も、その中での大映の倒産(昭和46年)も知っている。この映画はひとりの映画監督の生涯を描いた作品であると同時に、日本の映画黄金時代を描いた作品でもあるのだと思う。溝口健二の足跡を訪ねたり、ゆかりの地を訪問したりする新藤兼人は、それを通して「日本映画の歴史」を追いかけているのだ。そういう意味でも、なかなか面白い映画でした。

2001年5月12日公開予定 シネマライズ
「新藤兼人からの遺言状」
主催:近代映画協会、アスミック・エースエンタテインメント 宣伝:ドラゴンフィルム
ホームページ:http://www.kindaieikyo.com/ (とりあえず)


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