ダンス・オブ・ダスト

2001/03/06 シネカノン試写室
イランの映画監督アボルファズル・ジャリリの作品。
台詞がほとんどない。日本語字幕もなし。by K. Hattori


 『かさぶた』『7本のキャンドル』『ぼくは歩いてゆく』などの作品が日本でも紹介されている、イランの映画監督アボルファズル・ジャリリ監督作品。'92年に製作されたまま長らく封印されていた作品だが、'98年になって突然世界の映画祭に出品されて大評判となり、昨年にはイランでも公開が解禁されたという。(イランで公開が許された初めてのジャリリ作品。)

 物語の舞台になっているのは、砂漠のど真ん中にある煉瓦工場を中心とした小さな村。普段は人気のない小さな村は、空気が乾燥した煉瓦造りの季節になると、周囲から大勢の労働者たちを集めて、ちょっとした集落を形成する。民族も言葉も違う労働者たち。そして大勢の子供たち。主人公の少年イリアも、そんな労働者たちと一緒に煉瓦工場で働いている。乾燥した土と砂をふるいにかけて水でこね、木型に入れて形を揃えてから天日乾燥させ、最後に大きな窯で焼き上げる。イリアは季節労働者の娘リムアがちょっと気になる。彼女もイリアのことを気にしている様子。それは恋とも呼べないような、ごく淡い感情の交流。映画はイリアを中心に、煉瓦作りの作業や、村にいる人々の様子をスケッチ風に描いていく。

 この映画には監督の意向で字幕が付けられていない。映画の中で語られている言葉や行動が何を意味しているのか、観客にはまったく説明されない。しかし台詞は極端に切りつめられているし、劇中ではさまざまな言葉が飛び交うので、おそらくイランの人がこの映画を観ても、字幕なしで日本人がこの映画を観ても、理解度においてそう大きな違いはないように思える。これを不親切と感じるか、観客の想像力を刺激するための監督の演出と感じるかは意見が分かれるかもしれない。僕はこの試みを面白いと思った。言葉が少ないから、登場人物たちの表情や動作が観客にとって大きな意味を持ってくる。主人公イリアやリムアの表情が特に素晴らしい。言葉がないことがコミュニケーションの妨げには必ずしもならないということが、この映画からは伝わってくるように思う。

 説明不足な点は確かに多い。一番よくわからなかったのは、イリアが土に埋める手の形をしたお守りの意味。彼が乾燥途中の煉瓦の上でペタペタと奇妙なダンスを踊る場面もどんな意味があるのかわからなかったし、大雨で煉瓦の山が崩れた後、英語を喋る男がなぜ泥の中に寝ていたのかも意味不明。映画の最後にイリアが大急ぎで山に駆け上るのも、どんな目的があってのものかよくわからない。こうしたよくわからない点があまりにも多いと、個々のエピソードの意味をよくわからないままにしておくことこそが、監督の意図であることがよくわかる。

 時間経過などを示す描写も省かれているため、映画を観ながら時間の経過がどうなっているのか戸惑うことがある。煉瓦を作る行程も断片的にしか描かれないし、とにかく最初から最後まで徹底して説明を排除した作品。これは観客ごとに多様な解釈を許す映画だと思う。当然、作品の好き嫌いも分かれると思う。

(原題:Dance of dust (Raghs-e Khak))

2001年6月公開予定 テアトル池袋
配給:ビターズ・エンド


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