テヘラン悪ガキ日記

2001/01/30 メディアボックス試写室
亡き母の面影を追って少年院を脱走した不良少年。
子供の表情がじつに豊かでいい。by K. Hattori


 イランの少年院を脱走した少年が、ソーシアル・ワーカーの女性教師を自分の母親だと思い込み、彼女のあとを付いて回るというイラン映画。子供が主演のイラン映画なんてもう何本も観たけれど、それでも手を変え品を変え、次々と新しい子供映画が出てくるのだから驚いてしまう。イランの児童映画は検閲制度下で映画を作り続けるための方便という側面があるのだろうが、強い統制下でも規制の網の目をくぐるように優れた映画が作られ続けているのはすごいこと。日本なんてほとんど何も規制がないし、イランの何倍も映画が作られているのに、優れた作品がなぜ生まれないんだろうか……。

 母親のいないメヘディ少年は、幼い頃から何度も少年院を出たり入ったりするすさんだ生活をしている。彼は母親の面影を知らないが、新聞に掲載されていた母子像を切り抜き、それを夢に出てきた自分の母親だと言い張る。そんなとき少年院に、子供たちの世話をするためにソーシアル・ワーカーの女性教師がやってくる。彼女は切り抜きのお母さんにそっくり。メヘディは彼女こそ自分の母親だと信じ、少年院を抜け出して先生のもとを訪れる。そんな彼を不憫に思った先生は、メヘディを部屋に上げ、娘のアフーもすっかり彼になつく。だがメヘディは少年院に戻らなければならない。それを知った彼は、先生の手をふりほどいて町に飛び出していく。

 監督のカマル・タブリーズィーは『夢がほんとに』という作品が日本でも映画祭で紹介されているそうだが、僕はこの作品を未見。先生を演じたファテメー・モタメド=アリアはイラン映画界のトップスター。メヘディ役のホセイン・ソレイマニーは実際に少年院でスカウトされたというが、演技力は大したものだと思う。

 この映画が感動的なのは、物語が子供の視点から語られていると同時に、これが紛れもなく大人の側の問題を取り扱っているからだと思う。エピソードのほとんどはメヘディがいかにして先生に受け入れてもらうかという話で占められているのだが、物語の焦点になっているのは、はたして先生が彼を受け入れられるかという選択にゆだねられているのだ。物語が進行するに従って、少しずつ明らかになってくるのはメヘディの事情ではなく、むしろ先生側の事情。なぜ彼女はソーシアル・ワーカーの仕事を始めようと思ったのか。なぜ彼女は親身に子供たちの世話を焼きながら、メヘディの好意を素直に受け入れることができないのか。

 メヘディは孤独な少年だ。それは「お願いだから写真を返して」と泣き出すオープニングから、映画を観る人たちみんなにわかっている。しかし映画の終盤になって明らかになるのは、娘と二人暮らしをしている先生もまた、ひどく孤独で愛に飢えているという事実だろう。映画の最後の最後になって、彼女はすべての問題がメヘディにあるのではなく、彼の愛を欲しながらもそれを受け入れることができなかった自分にあるのだと悟る。人間の弱さは、時に人を残酷な行動に駆り立ててしまう。

(原題:mehre madari)

2001年4月公開予定 キネカ大森
配給:パンドラ


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