ファットマン

2000/11/29 シネカノン試写室
アリゾナ州の田舎町で起きた不可解な殺人事件の謎。
ヒロインにまったく感情移入できない。by K. Hattori


 アリゾナ州レイクマナーは田舎町だ。その田舎町ぶりは、町で外食をする店がビリー・ボブのハンバーガーショップぐらいしかないということでもわかる。町民のほとんどはその町で生まれ育ち、生涯一度も町から外に出ていかないような連中ばかり。そんな小さな町で、幼い姉弟を連れた若い母親が何者かに襲われ、子供たちは死亡、母親も重傷を負うという事件が起きた。事件のショックからか、母親キャリーは事件前後の記憶をすべて失っている。いったい彼女たちに何が起きたのか?

 チラシやプレス資料から受ける印象と、実際の映画が大きく食い違っている作品。チラシやプレスを見たときは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような偽ドキュメンタリーかと思ったのですが、実際はただのB級ミステリー映画でした。一筋縄ではいかない人物設定やひねりを利かせたプロット、思いがけないところで明らかにされる衝撃的な事実、新聞社のコラムニストが事件の取材をするという回想形式、テレビ通販番組の挿入など、映画の作りそのものにはいろいろと工夫がある。たぶん映画の作り手は、コーエン兄弟の作品をかなり参考にしているのだと思う。ただしこの映画にはコーエン兄弟の映画のようなシャープさが欠如しているし、コーエン兄弟のような二転三転するどんでん返しが不足している。すべての結末は、観客があらかじめ予想している結末の範囲内に収まってしまうのだ。それならそれで、的のど真ん中にドンピシャリと弾を撃ち込むようなスマートさを見せればいいのに、この映画はそこで妙にひねったりズラしたりして、結局は中途半端になっている。

 プロットや演出以前に問題なのは、主人公キャリーが映画の中であまり魅力的に描かれていないこと。彼女は誰からも愛されたいがために、周囲に平然と嘘をつく。でもそんな彼女は、周囲の人たちにとって誰よりも可愛い女でなければならないのです。他愛のない嘘、罪のない嘘、愛を求める弱い女の愚かさから生まれた嘘、自分自身を守るための嘘。そうした嘘の集積の上に、大きな悲劇が生み出される。ところがこの映画のキャリーは、口から出任せの無責任尻軽女に見えてしまう。観客は彼女に同情したり共感する前に、彼女に反発を感じてしまう。反発はやがて憎しみになる。観客から憎まれたヒロインは、破滅する瞬間を今か今かと待ち望まれるようになる。観客は彼女の幸せを望まない。観客は彼女の死すら願う。ブラッド・レンフロ、お前は偉い!

 観客は早々にヒロインを見放しているのに、映画の中の男たちも女たちも、キャリーをちやほやして彼女のために大いに同情し、時には涙さえ流す。こうなると観客は「どうでもいいよ。勝手にやってなさい」というひどく醒めた気分にさせられてしまうのだ。

 テレビ通販のセールストークや、商店のセールを示す張り紙、最後には事件の顛末を記した本の定価まで見せている。こうした描写にどんな意味があるのかもよくわからない。価値の商品化を皮肉っているのか?

(原題:THEORY OF THE LEISURE CLASS)

2001年1月下旬公開予定 俳優座トーキーナイト
配給:ファインアーツ・エンタテインメント 配給協力:シネマ・キャッツ


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