卍(まんじ)

2000/08/11 シネカノン試写室
女同士の愛を描く谷崎潤一郎の原作を増村保造が映画化。
後半は男女を交えた愛情と葛藤のドラマ。by K. Hattori


 谷崎潤一郎の同名小説を、増村保造監督が映画化した愛欲のドラマ。絵画教室で若く美しい女と知り合った有閑夫人が、彼女との同性愛関係の中にのめり込み、やがて相手の情夫や自分の夫も巻き込んだ、愛と嫉妬と羨望の葛藤地獄に堕ちて行く。弁護士の妻・柿内園子を演じるのは、今やすっかり不気味女優に変身してしまった岸田今日子。彼女を翻弄する美しい令嬢・徳光光子を演じるのは、今も凄味のある美しさを保つ若尾文子。嫉妬深く計算高い光子の情夫を演じるのは、好人物を演じることの多い川津祐介。園子の堅物亭主を演じるのは、『美しき獣』でも若尾文子に翻弄された船越英二。脚色は新藤兼人。僕は原作を読んでいないので映画の独創がどこにあるのかよくわかりませんでしたが、映画の前半は同性愛の話題で観客の下世話な好奇心を刺激し、後半では嫉妬と疑心暗鬼という普遍的な愛の物語にして全体を締めくくっている。今観ると同性愛描写などはいかにも興味本位が優先しているようで古くさいのですが、この映画では複数の男女の愛を複雑に交錯させる方便として同性愛が用いられているようにも感じられます。

 この映画が作られたのは昭和39年。僕もまだ生まれていないような大昔です。その頃は男女の性愛ですらなかなか映画のテーマにすることは難しかったのですから、ましてや同性愛を物語の中心テーマにするなど難しいことだったと思う。観客の興味は、どうしたって女同士のセックスシーンを期待する。でもこの映画では、もちろんそんなものは登場しない。ここにあるのはチラリと肌をさらすエロティシズムと、互いの身体を求め会う肉体が発散するセックスの匂い。映画の前半で、山道を歩きながらヒロインたちが指先を絡め合う場面や、若尾文子の肉体を前にしてシーツを引き裂く岸田今日子、互いの裸体を静かに寄せ合うヒロインたちの立ち姿ぐらいが、この映画の限界です。でも「許される限界ギリギリまでやっちゃうぞ!」という作り手の姿勢が、この映画に濃厚な性の匂いを感じさせているのだと思う。たぶんどんなセックスも、一番気持ちが高ぶるのは、初めて相手と抱き合うまでのわずかな時間だと思う。この映画は、そのあたりをうまく描いています。

 映画の終盤は、園子と夫がそれぞれ光子と関係を持ち、どちらが光子の愛を独占するかと競り合う、一種異様な世界に突入します。ところがこの三角関係、どこかで見覚えがある。つい最近、別の映画でも同じような関係を観た記憶がある……と少し思案した結果、それは『マルコヴィッチの穴』であることに思い当たった。あの映画も男女の三角関係をより複雑なものにするために、女性同士の恋愛関係を持ちだしてきたように思える。三角関係の頂点にいるのはいつも女性。しかし『マルコヴィッチの穴』がレズビアンの映画ではないように、『卍』もレズビアンの映画ではないと思う。愛する人への疑心暗鬼や嫉妬に男も女もない。共に園子を愛する柿内夫妻が、同じ悩みを持つ同士のようになってしまう面白さ。


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