薔薇の眠り

2000/06/28 松竹試写室
『ぼくのバラ色の人生』の監督が撮ったデミ・ムーア主演最新作。
さっぱり意味がわからないのは僕の頭が悪いのか? by K. Hattori


 『ぼくのバラ色の人生』のアラン・ベルリネール監督が、デミ・ムーア主演で撮ったファンタジックなラブ・ストーリー。脚本は『エントラップメント』や『ベスト・フレンズ・ウェディング』のロン・バス。ストーリーは荘子の「胡蝶の夢」にも似た、夢と現実が交錯する構成となっている。僕は『ぼくのバラ色の人生』という映画が大好きだったので、同じ監督の新作と聞けば嫌でも期待してしまう。でも正直言って、今回の映画は前作ほど素直に楽しむことができなかった。ニューヨークでバリバリのキャリアウーマンとして働くシングル女性と、南仏の田舎町で二人の子供を育てながら暮らすシングルマザーが、夜眠るたびに入れ替わるというアイデアそのものは面白い。現実逃避の荒唐無稽な夢にしては、やけに生々しい現実の手応え。やがてヒロインは、自らの現実を見失い始める。そもそも「現実」とは何なのか? 今の自分の生活こそ、もうひとりの自分が見ている夢かもしれないではないか。だとしたら、自分は一体誰?

 ハリウッド映画が海外を舞台にした映画を作っても、そこでは全員が英語をペラペラに喋っているのが当たり前。そんなことでいちいち目くじらを立ててもしょうがない。(『ロザンナのために』という、登場人物が全員イタリアなまりの英語を喋り、イタリアでロケすることで「ここはイタリアでござい」と言い張った珍品もある。)でもこの映画では、世界一の大都市ニューヨークでの生活と、のどかな南仏の生活が対比されているのです。舞台が南仏に移動したら、そこではフランス語を使ってほしい。ここを無頓着にしてしまうと、観ている方は南仏の生活描写を、ニューヨークのそれより一段劣ったものだと見なしてしまう。南仏とニューヨークのどちらが 「現実」でどちらが「夢」かと問われれば、英語を喋る南仏が「夢」に決まっているではないか。こんなところで、観客のある種の予断を与えるのはつまらない。この役は基本的にフランス語と英語の二ヶ国語で作るべきだったのだし、もしデミ・ムーアにフランス語を話させるのが無理なら、それが不自然にならない設定を考えるべきだった。ほんの少しの工夫で、それは可能なのだ。

 デミ・ムーアはなんだかすごく久しぶりに顔を見たような気がするのだが、ニューヨークのキャリアウーマンも、南仏で子育てをする母親も無理なく演じています。一時期はお色気たっぷりの悪女タイプばかりを演じていたのだから、女優としてずいぶんと演技の幅が広がったことがわかります。今回彼女のお相手を演じるのは、ス『奇跡の海』『グッド・ウィル・ハンティング』のテラン・スカルスゲートと、『アルマゲドン』『go』のウィリアム・フィッチナー。見た目はまったく違うふたりの男ですが、映画の中では同じように物分かりのいい男として描かれているのも物足りない。もう少し、タイプや性格の違う人物として描かれると、より面白味は増したと思う。まったく違う二つの世界が少しずつ共通項目を共有しているというのが、この映画の面白さなのに。

(原題:Passion of Mind)


ホームページ
ホームページへ