ポール・ボウルズの告白
シェルタリング・スカイを書いた男

2000/06/15 アップリンク・ファクトリー
小説家ポール・ボウルズ最晩年のインタビューが中心。
ドキュメンタリー映画としては踏み込み不足。by K. Hattori


 映画『シェルタリング・スカイ』の原作者、ポール・ボウツズ本人と周囲を取材した人物ドキュメンタリー。1910年にアメリカで生まれたボウルズは当初新進気鋭の作曲家として活動していたが、後に小説家に転身。1930年代以降モロッコに深く魅せられ、晩年をそこで過ごして1999年11月18日に亡くなっている。この映画は1990年代半ば以降の、いわば最晩年のポール・ボウルズの肉声を記録しているという意味で非常に貴重な映画になっているのかもしれな。映画の中で目玉になっているのは、ニューヨークを訪れたボウルズが、長年の友人であるウィリアム・バロウズやアレン・ギンズバーグとホテルの部屋で対談する場面だろうか。

 全編ビデオ撮りであることには文句を言うまい。僕がこの映画に物足りなさを感じるのは、この映画が「ポール・ボウルズの人となりをある程度知っている人」を対象に作られていることだ。映画は「作曲家」「作家」であるボウルズの肉声に触れ、その内面に深く切り込んでいこうとするのだが、そこは目に見えない厚い壁があって、なかなか実体に手が届いていないように思える。僕はボウルズという作家をまったく知らないし関心もないので、ここに登場するような彼の告白を聞いても、まったく面白いと思わなかった。人物ドキュメンタリーというのはドキュメンタリー映画の中でもひとつのジャンルになっているものだし、その手法や切り口もある程度パターン化された定型がある。

 僕はガーシュインやコール・ポーターのドキュメンタリー映画をLDで持っていますが、描いている対象が違うとはいえ、人物への接近方法というのはだいたい似通っている。本人の仕事の紹介、生い立ち、本人のインタビュー、周辺人物のインタビューなどによって、対象となる人物を立体的に浮かび上がらせるのだ。この『ポール・ボウルズの告白』も一応はそうした基本に忠実なのですが、どうにも踏み込みが浅い気がする。ボウルズの発言を別の人たちのインタビューで相対化していく部分に、切れ味が乏しいのではないだろうか。人物ドキュメンタリーの命は、対象をどう切り取るかです。その切り口が鮮やかであれば、『コリン・マッケンジー』のような架空人物のドキュメントだろうと、『知ったこっちゃない』のような一般市民のドキュメントだろうと、それなりに楽しく観ることができる。

 破天荒な生き方をした作家のドキュメンタリーということなら、原一男監督が小説家の井上光晴に取材した『全身小説家』という傑作がある。僕はボウルズも知らないけれど、井上光晴も知らない。でも映画としては『全身小説家』の方が圧倒的に面白かった。ボウルズよりも井上光晴の方が素材としてユニークだったわけではないと思う。これは結局、映画を作る側の踏み込み方の違いであり、対象を映画というまな板の上で調理する際の切り口が違うのです。『全身小説家』はプロの仕事だけれど、『ポール・ボウルズの告白』は素人料理だな。

(原題:LET IT COME DOWN)


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