ひまわり

2000/06/09 KSS試写室
小学校時代の同級生の葬式に集まった友人たちの物語。
自分の小学生時代を思い出してしまった。by K. Hattori


 松竹シネマジャパネスクの混乱をもろにかぶり、気の毒なことに初監督作『OPEN HOUSE』の公開めどが未だに立たない行定勲監督の新作。主演は『カンゾー先生』の麻生久美子だが、彼女は映画に登場したときから既に死んでいる。この映画は、死んだヒロインの葬式に集まった人たちの物語だ。黒澤明の『生きる』は後半で主人公のお通夜になり、そこで弔問客が次々に思い出を語るという構成になるが、この『ひまわり』も基本的にはそれと同じような構成になっている。

 小学校時代の同級生・真鍋朋子が釣り船の転覆事故で行方不明になったと聞いて、今は東京で暮らしているかつての同級生たちが伊豆の小さな町に戻ってくる。小学校の途中で転校していった彼女のことを、同級生たちはほとんど覚えていない。たまに年賀状のやり取りがある程度で、親密に連絡を取り合っている友人はいなかったらしい。本人の遺体が見つからないのに、葬儀だけは行われる。一体彼女はどこに行ってしまったのか? 一体彼女は何者だったのか? そんな疑問に答えを出そうとするかのように、葬儀に参列した彼女に関わりのある男たちの「死の直前、彼女に会ったんです」という証言が続く。同時にかつての同級生たちの中には、小学生時代の彼女の姿がくっきりと蘇ってくるのだ。

 遺体のない葬式というのは奇妙なシチュエーションだが、「故人の死を確認する儀式」としての葬式を描くのに、これほど打ってつけの設定はないかもしれない。遺体がそこにあれば、参列者はその死に顔を確認して「ああ、やはり本当に死んだのね」と納得すればいい。でもこの映画の中では死体が未発見のため、ヒロインの親族も、かつての級友たちも、関わりのあった男たちも、全員が何か腑に落ちないものを感じている。彼女は確かに海で行方不明になったのであり、それからずいぶん時間もたっている。まさか生きていることはないだろう。だが「死んでいる」「死んだ」と素直に納得することもできないのだ。真鍋朋子は生と死の間で宙ぶらりんになり、まったく行き場を失っている。この映画はそんな宙ぶらりんになってしまったヒロインの「死」を、登場人物たちが素直に受け入れられるようになるまでを描く。

 映画の何分の半分弱は小学校時代のエピソードになっている。クラスの中にいた可愛い女の子に、秘かに好意を持っていた思い出。今となっては名前も顔も思い出せないから、本当に「可愛い女の子」だったのかさえ定かではないけれど、妙にまぶしくキラキラした印象だけが心に残っている女の子がクラスにいたことは確かだ。僕もそういう気になる女の子に、あえて乱暴な口をきいたり、持ち物を隠すなどのイタズラをしたりした。今ではそんなことを思い出すこともなくなっていたけれど、この映画を観たら、そんな遠い過去の記憶がゆっくりと思い出されてきて、なんだか切ない気持ちになってしまう。

 ところで主演の袴田吉彦は、どこかでもう一皮むけるといい役者になると思うんだけどなぁ……。


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