新しい神様

2000/05/24 アップリンクファクトリー
自称左翼のビデオ映画監督が右翼青年を取材。
そこで生まれる対話と葛藤と“愛”? by K. Hattori


 ビデオを使った作品を精力的に発表している土屋豊監督が、民族派(右翼)パンクバンド「維新赤誠塾」のボーカリストである雨宮処凛(あまみやかりん)という女性を取材したドキュメンタリー作品。維新赤誠塾は雨宮のボーカルと、リーダーである伊藤秀人のふたり組ユニットだが、映画の中では雨宮がすべての中心。「右翼=駅前の街宣車で怒鳴っている男たち」という先入観を打ち砕くためにも、雨宮をモチーフにしたのは正解だったと思う。ちなみに土屋監督本人は「天皇制反対」を主張する左よりの人物。維新赤誠塾の主張を紹介する監督の視線は冷ややかで、単に現代右翼青年たちの主張を紹介する映画になっているわけではない。この映画の描いているものは、右翼とか左翼とか、そういう政治的な主義主張ではないのです。現代の日本の中で自分自身の居場所を探している若者たちが、悪戦苦闘しながら自分よりも大きな「思想」や「政治」や「天下国家」と向き合おうとしている姿を素直に描いている。

 少女時代からいじめられっ子で、思春期以降は家出と自殺未遂とビジュアル系バンドの追っかけに青春の時間を費やしていたという雨宮処凛は、民族派の主張に触れて「私が苦しかったのは戦後民主主義教育とアメリカ帝国主義に毒された平和ボケ日本のせいだ」と開眼してしまう。この映画は現実の時間をほぼそのまま追いかけるようにして進行するのだが、最初に映画に登場する雨宮は、バリバリの民族派活動家です。しかしそんな彼女が北朝鮮を訪問すると、それにコロリと参ってしまう。「北朝鮮には偉大な指導者と思想があるから人民は困難に耐えられるのよ。それって幸せだと思う」と目をキラキラさせながら語りだしてしまうのです。彼女は民族派の運動に幻滅し、自分自身の中にある「思想」をも疑い始める。維新赤誠塾は民族は組織から離れ、自分たち自身の言葉で今の自分たちについて語り始める。

 権力と権威の分離は海外でも「王権と教会」という形で広く行われていたものだから、日本の天皇制だけが特に特殊なものでもないと思う。たいていの人間はいつだって、自分以外の大きな存在と結びつきたいと願っている。それが天皇制なのかキリスト教なのかマルクス主義なのかは人によって違うかもしれないけれど、どれも人間に与える効果は似たようなものだ。ある思想と結びつくことで、人間は個人の視点を超えて世界を見ることができるようになる。問題は思想と密着しすぎて、個人の視点が消えてしまうこと。個人と思想という複眼的な思考がなければ、人間の行動は地に足のつかないものになる。たぶんこの映画の中で維新赤誠塾が苦しんだのも、そうした「地に足のつかない空回り」だったのだと思う。彼らの苦しみは、例えば小林よしのりの「戦争論」を読んで急に天下国家に目覚めてしまった若者たちも、一度はくぐり抜けなければならないものであるはずだ。

 人は自分にはないものを相手に求めてそれに惹かれる。この映画はビデオによるラブレターです。最後はちょっと赤面。


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