ぼくは歩いてゆく

2000/02/24 映画美学校試写室
戸籍のないイランの少年を主人公にした社会派のドラマ。
ドキュメンタリー風の演出がユニーク。by K. Hattori


 昨年の東京国際映画祭でも上映された、アルボファズル・ジャリリ監督の新作。劇場公開されている『かさぶた』『7本のキャンドル』などと同じく、都会で過酷な生活を強いられている子供たちの物語だ。主人公のファルハードは9歳の少年だが、彼には戸籍がない。麻薬中毒の両親が、彼の誕生を役所に届けず、その後もまったく申請していないのだ。彼は学校に行くこともできないし、まともな職場で働くこともできない。この映画はジャリリ監督が町の中で実際に戸籍のない少年を見つけ、話を聞き始めたことから生まれたという。主人公のファルハードを演じているのは、映画撮影中は本当に戸籍がなかったファルハード・バハルマンド。この名前は映画の撮影が終わった後、ジャリリ監督らの協力もあって無事戸籍を取得した際、役名をそのまま本名として申請したものだという。それまでの彼は「チャーリー」や「ジアン」など、幾種類もの名前で呼ばれていたらしい。

 僕自身は生活する上で戸籍や身分証明書の必要をあまり感じることがないのですが、この映画を観ると、イランでは何をするにも身分証が必要不可欠らしい。もっともこの映画の中では、身分証というものが主人公のアイデンティティを象徴するものなのかもしれません。だから現実以上に、戸籍や身分証の問題が誇張されているのでしょう。主人公のファルハードは戸籍がないがゆえに、実際に生きて生活していながら、公式には存在しない幽霊のような存在になっている。戸籍がないから学校のような公的共同体の中に入ることは出来ないし、それに準じる一般社会も彼を受け入れてくれない。ならば彼は家族の中に居場所があるかというと、それもこの映画には描かれていない。映画の中では、主人公と両親の関係性が希薄です。父親は要所に登場してきますが、母親と主人公の関係などほとんど描かれていないに等しい。つまり主人公は、家族からも受け入れられないのです。

 両親は麻薬中毒で稼ぎなし。戸籍がないので公的な援助も受けられない。主人公は身分証をでっち上げたり盗んだりして、何とかして働き口を探そうとします。嘘だって平気でつく。生きるためには、そのぐらいしないと間に合わないのです。ファルハードが事務用品屋の主人に嘘をつく場面は、その嘘が観客にとってはあまりに見え透いたものであるため、観ていて痛々しい。

 つい先日観た『太陽は、ぼくの瞳』も、家族に捨てられてしまう少年を主人公にしたイラン映画だった。僕はイラン映画が嫌いじゃないですけど、寄りによって似たような話を2回観せられてしまうとゲンナリする。この映画を作ったアボルファズル・ジャリリ監督はイラン映画界ではどちらかと言えば傍流なのだから、ここまで来るとむしろ、現地で興行的にも成功した娯楽映画を観てみたいものだ。一時期インド映画が「暗い」と思われていたように、このままではイラン映画が「暗い」というレッテルを貼られちゃうよ。イラン版の『ムトゥ』みたいな映画はないのだろうか……。

(英題:DON)


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