おしまいの日。

1999/12/16 メディアボックス試写室
新井素子の原作を君塚匠監督が映画化した異色ホームドラマ。
観ていて非常にイライラする不愉快な映画。by K. Hattori


 夫婦という単位で外界から切り離された現代の核家族家庭において、“家”という空間は他と比較することができない絶対性を持ってしまう。「これが普通なのだ」「よそでもきっと同じだ」という思いこみ、あるいは「うちは異常だ」「よそはもっと違うはずだ」という根拠のない羨望が人間を縛り、やがて身動きがとれない状態へと追いやって行く。この映画に登場する二組の夫婦は、まさにそうした空間の呪術にとらわれてしまった犠牲者たちだ。一組はその中で破滅し、一組はそこからの脱出路を見いだして生き延びる。これはそんな寓意に満ちた物語なのだ。ただし、映画の後味はひどく悪い。

 監督は『ルビーフルーツ』『激しい季節』の君塚匠。出演は裕木奈江、高橋和也、菜木のり子、金山一彦。子供のいない二組の夫婦の物語は、この4人を中心に回っていく。妻たちが専業主婦であることもあり、舞台は常に家庭の中。裕木・高橋コンビが演じる夫婦は、仕事中毒気味だが妻を心から愛している夫と、それを献身的に支える妻という組み合わせ。家の中は住宅展示場のモデルルームかインテリア雑誌のグラビアページのように整理整頓され、生活の「垢」のようなものが一切感じられない清潔さで保たれている。清潔さと言うより、ある種の無菌状態と表現した方が正しいかもしれない。この部屋に一番近いのは、映画『2001年宇宙の旅』のラストシーンに出てくる白い部屋だ。その清潔さから、人間が浮き上がっている印象さえ受ける。一方の菜木・金谷ペアは、夫婦関係にすきま風が絶えない倦怠期を迎えている。部屋の中は生活の中には過去の記憶が物として堆積しているが、ふたりはそんなものに目をくれることもなく、退屈な日常生活の中に埋没してお互いを見失いかけている。ふたりは些細なことで互いをなじり、不満を爆発させ、時には相手に手を振り上げる。

 家庭の中に潜在している“狂気”がテーマだが、それゆえに僕が不快感を持ったわけではない。同じような夫婦を描いても、篠崎誠監督の『おかえり』は人をこれほど不快にはさせないはずだ。『おしまいの日。』の不快さは、登場人物たちの徹底した鈍感さにある。会社での夫の社会的な立場を気遣うことなく、帰宅の遅い夫のために夕食を作り続ける妻。強迫的な家事の反復に溺れ、日常性を失っていく妻の狂気に気づかない夫。裕木・高橋ペアの夫婦関係は、観ていて非常にいらいらさせられた。これは間違いなく監督の意図なのだろうが……。

 映画を観る側にとって、裕木奈江は画面に初登場したその瞬間から狂っているように見える。映画の前半は「狂っている妻」と「それに気づかない周囲の人々」のハラハラするような関係が描かれている。しかしこれは、ドラマの作りとしてはやや変則的だ。裕木奈江を最初ごく普通の主婦に見え、それが徐々に狂気を感じさせていく方が、物語にはサスペンスが生まれると思う。なぜそういう定石を踏まなかったのか? 僕には単なる演出プランの失敗のように思えるのだが……。


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