ジャンヌ・ダルク

1999/10/30 オーチャードホール
(第12回東京国際映画祭)
結局この映画のジャンヌ・ダルクは何者だったのか?
こんな映画で観客に解釈ゆだねるな! by K. Hattori


 『ジャンヌ・ダルク』を再見した。たぶんリュック・ベッソンは、ジャンヌ・ダルクという歴史上の人物に対して自分なりの明確な解釈がないまま、映画を作り始めてしまったのだと思う。作り手の意図が不明確でも、作っているうちに少しずつ輪郭が明快になって、最後には力強いフォルムが現れるというタイプの映画作りもあるだろう。しかしこの『ジャンヌ・ダルク』に関しては、そうした方向に物事が進まなかったらしい。この映画のジャンヌは、最初から最後まで正体不明なヒロインだ。

 前回も感じたことだが、この映画のジャンヌには一軍を率いて戦うだけのカリスマ性がない。皇太子の前に出ると緊張で声は震え、戦場では意識が高揚して金切り声をあげる。異端審問の場では、自信なさげに小さな声でぼそぼそとしゃべる。こんな少女が、なぜフランスを救う英雄になれたのか、説得力がまるでない。

 ベッソンがこうしたジャンヌ像を作ってしまった理由のひとつは、ひょっとしたら彼が、本質的には無神論者だからかもしれない。この映画の中で魅力的に描かれているのは、「奇跡は1度で十分。これからは奇跡に頼る必要などない」と言い放ってジャンヌを捨てるヨランド・ダラゴンや、「私は神を信じない」と言ってジャンヌをイギリスに売り渡すブルゴーニュ派の領主だ。こうした人物が生き生きと描かれているのに対して、神がかりのジャンヌはだいぶ分が悪い。この映画から欠落しているのは、当時の人々が例外なしに持っていたキリスト教信仰だろう。信仰があるからこそ、人々は神がかりの少女ジャンヌに従ったのではないだろうか。

 この映画がつまらない最大の理由は、農夫の娘ジャンヌがフランス精鋭部隊に合流し、破竹の勢いで連戦連勝する場面が少しも面白くないからです。ベッソンはジャンヌの行動について『人を殺すのに正当な理由などない。ましてや神の御名のもとに殺すことはできない』と述べています。馬鹿です。ジャンヌは間違いなく、神の名のもとに戦争をしていたのだし、それによって国家の英雄になった。だとしたら、映画の前半でジャンヌが活躍する場面は、手に汗握るスリルに満ちた、大スペクタクルで観客を熱狂させるべきなのです。この映画の間違いは、戦場でのジャンヌの勝利を描きながら、それを非難していることです。戦闘シーンにかぶさる重苦しく悲惨な音楽。血塗れの戦場でジャンヌが見る、傷ついたキリストの幻影。死屍累々たる戦場を見て、ジャンヌは「こんなはずではなかった」と後悔の涙を流す。アホか!

 戦場にはあらゆる種類の栄光と悲惨がある。この映画は戦場の悲惨だけを描き、栄光を描こうとしない。だからジャンヌの涙に少しも説得力がない。最後の30分も、映画としてはまるで死んでいる。ジャンヌはまず栄光を味わい、その後に悲惨を味わう。だからこそ悲惨さがより強烈に印象づけられるのです。この映画の戦場シーンは、まるで黒澤明の『影武者』かスピルバーグの『プライベート・ライアン』。こんな映画に誰がした?

(原題:The Messenger: The Story of Joan of Arc)


ホームページ
ホームページへ