地雷を踏んだらサヨウナラ

1999/10/08 TCC試写室
実在の日本人カメラマン一ノ瀬泰造の伝記映画。
思い入ればかりで説明のない欠陥映画。by K. Hattori


 昭和48年、内戦下のカンボジアで取材中に消息を絶った日本人カメラマン、一ノ瀬泰造の伝記映画。主演は浅野忠信。監督の五十嵐匠はピューリッツァー賞カメラマン沢田教一のドキュメンタリー映画『SAWADA』を撮影中に、沢田と同じようにカンボジアで死んだ一ノ瀬泰造の存在を知り、映画化を決意したという。製作は奥山和由。例の松竹解任騒動の後、自分のプロダクション「チーム・オクヤマ」を旗揚げし、その第1回作品となったのがこの映画だ。名物プロデューサーの独立第1作ということもあって大いに期待した映画だったが、残念ながら期待はずれもいいところだった。

 僕はこの映画の主人公にまったく感情移入できなかった。この映画には「なぜ?」「どうして?」という部分が多すぎるのです。なぜ泰造はカメラマンになりたかったのか? なぜ彼はカンボジアに出かけたのか? 戦場カメラマンという危険な仕事で一攫千金を狙ったわけではない。それは泰造の写真がさっぱり売れないことでもよくわかる。彼はロバート・キャパや沢田教一の活躍に憧れて、戦場カメラマンという道を選んだのかもしれない。おそらくはそうでしょう。でも、この映画ではそれについて一言も説明されていない。観客はその程度のことを当然知っていると思ったのだろうか。でもそれでは、この主人公の動機を説明するには不足なのです。僕もキャパや沢田教一の名前は知っているし、その仕事ぶりも写真集などで見ている。でもそんな知識だけでは、当時の戦場カメラマンが置かれていた立場は見えてこない。インドシナでの戦争は、当時の世界からどう見られていたのか。カメラマンは世界に何を伝えることが求められていたのか。そんな「報道写真業界の常識」を、まずはきちんと観客に納得させてほしかった。

 泰造は最後までアンコールワットの撮影にこだわり、最後はアンコールワットのすぐそばで死んでいます。なぜアンコールワットなのか。そもそもアンコールワットとは何なのか。そんな基礎的説明も絶対にほしいのに、この映画にはそれが欠けています。説明する機会はいくらでもあるのです。例えば泰造が日本の家族と再会したとき、アンコールワットについて夢見がちな表情で説明するシーンを作ればいい。それによって、観客も泰造と同じように「アンコールワットが見たい!」と思えるようにしてほしい。そうすれば、ラストシーンだってずっと感動的になるだろうに……。

 伝記映画としての工夫が、どこにも見られません。エピソードを時系列に並べているだけで、ドラマとしての粘りが希薄なのです。権利問題などもあるのでしょうが、泰造の撮った写真があまり映画の中に登場しないのも痛い。浅野忠信が熱演しているだけに、こうした作劇上の怠慢が苛立たしく感じられるのです。なぜ今この時代に一ノ瀬泰造を描く必然性があるのか、なぜこの映画が泰造の死から四半世紀以上たった平成11年に作られなければならないのか、それをもっと考えてほしかった。


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