黄昏に瞳やさしく

1999/07/13 TCC試写室
政治の時代の政治的断絶を政治抜きで描く難しさ。
マストロヤンニはうまいが、映画はわかりにくい。by K. Hattori


 マルチェロ・マストロヤンニ主演の家族ドラマだが、なぜこの映画が今公開されるのかさっぱりわからない。名優の主演映画が正規に日本公開される意義は大きいと思うが、この映画を、いったい誰が観るんだろうか。製作されたのは1990年。マストロヤンニが主演した、ジュゼッペ・トルナトーレ監督作『みんな元気』と同じ年の作品だ。共演は『仕立屋の恋』などで知られるフランスの女優サンドリーヌ・ボネール。

 1977年のイタリアが舞台。妻に逃げられた息子から4歳の孫娘パペレの世話を押し付けられたブルスキ教授と、家に転がり込んできたパペレの母親の物語だ。共産党員でありながら堅実で保守的な生活を営んでいるブルスキは、最初のうちこそパペレを厄介者扱いしているが、やがてこの可愛い孫娘に夢中になってしまう。息子の嫁であるステラが自由奔放に振る舞うのは我慢ができないが、彼女が交通事故に遭って入院していると聞けば、黙って彼女を自宅に引き取ったりもする。足をギブスで固定されているステラは、ブルスキの言いつけにしたがって生活を改めたかに見えたが、ギブスが取れるとパペレを連れて元の生活に戻っていく。こうしてブルスキの前からパペレとステラは永久に姿を消し、彼の心の中には思い出だけが残される。

 あいにくと、僕はこの映画がまったく理解できなかった。難解なわけではないが、わかりにくい。最初に登場するブルスキは、ここで描かれている物語から10数年後になってパペレに手紙を書いているようだが、その間は何をしていたのか。この時代の断絶が、そもそもどんな意味を持っているのかわからない。ブルスキはなぜ、大人になったパペレに向かって手紙を書かなければならなかったのか……。こうした映画全体の構造のわかりにくさは、僕がこの映画を製作直後に観ていないことで一層混乱してくる。この映画の中で手紙を書いているブルスキは、映画が製作された1990年頃の姿なのだろう。だからブルスキが1977年を回想すれば、本来、観客は同じ感覚で同じ時代を回想できる。ところがこの映画が製作から9年後に日本公開されるため、我々にとって9年前の過去に住んでいる人物が、さらに10数年前を回想するという入り組んだことになってしまった。

 映画の舞台になった1977年は、イタリア国内で政治運動や暴動、テロが多発した動乱の時代だったという。この映画ではそうした説明の一切を割愛してしまったため、共産党員であるブルスキと、息子やステラたちとの断絶がよくわからない。政治ではなく、家族の物語にしたいという意図があるのだろうが、それにしてももっと説明が必要だと思う。

 映画のわかりにくさをより強めているのは、日本語字幕の拙さだ。翻訳の当否はわからないが、訳された日本語そのものがかなりいい加減で「そんな日本語あるか?」と首を傾げるようなものばかり。公開時には、字幕をすべて入れ替えるというのだが……。

(原題:VERSO SERA)


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