野菊の如き君なりき

1999/02/06 松竹セントラル3
伊藤左千夫の原作を、木下惠介が昭和30年に映画化。
感傷的な話ですが、泣けます。by K. Hattori


 伊藤左千夫の小説「野菊の墓」を、木下惠介監督が昭和30年に映画化したもの。60年ぶりに故郷を訪れた老人が、若い頃の思い出を語るという構成。回想シーンに楕円形の白いマスクを施し、古い写真帳のような構図を作っているのが特徴だ。僕は以前この映画を少しだけテレビで見たことがあるのですが、間にはさまれるCMに比べると本編のテンポが間延びしているし、主演俳優たちの芝居が堅苦しいのが気になって、すぐに見るのをやめてしまった。これは映画館でじっくり観ないと、その真価がわかりにくい作品だと思う。僕は今回初めてこの映画を観たようなものですが、最後はたっぷり泣かされてしまった。なお同じ原作は、昭和52年に山口百恵、昭和56年に松田聖子主演で映画化されている。

 原作はずっと昔に読んだことがあるはずなんですが、その時は何の感銘も受けなかった。この物語は、「若いカップルが封建的で無理解な大人たちに引き裂かれる悲劇」と解釈されることが多いだろうし、僕が原作を読んだときも、たぶんそう読んでいたのだと思う。ひょっとしたら、原作はそういう話なのかもしれない。だがこの木下惠介の映画は、悲劇の本質を「大人たちの無理解」や「封建的家族制度」以上に、「民子が2歳年上であったこと」に置いているように思える。

 民子が「どうして私は、政夫さんより年が上なんだろう」と嘆く場面の切なさ。政夫は中学校に通うことで、子供である期間が延長されることが決まっている。対する民子は、否応なしに大人になって行ってしまう……。このままずっと子供のまま足踏みしていたいと願っても、それは許されないのだ。時の流れは、誰にもせき止められない。この映画は老人の回顧譚という構成が取られているため、「月日が人間の気持ちを無視して流れて行く」という無常観が強調されている。政夫と民子が夕焼けを眺める印象的なカットも、「美しい一瞬は永遠には続かない」という象徴的な場面だと思う。

 そもそもが「60年前の話」なので、映画が作られた時点でこれは大昔の話。映画が作られてから40年以上たちましたが、これを受け止める観客の世代間ギャップはあまりないのかもしれない。木下監督の名作『二十四の瞳』には泣けなかった僕も、この映画には泣いてしまいました。例えば、民子がお嫁入りする場面。民子は家の前を出発するとき、何かを決意したように一度上を向き、その後はうつむいたまま嫁ぎ先に向かう。月夜の晩に花嫁の行列が画面の横一列に並んで通って行く場面が、まるで葬列のように描かれます。「民子はここで、自分の心にある政夫への想いを封印したのだ」「民子はここで、気持ちの上では死んだのだ」と思うと、それだけでハラハラと泣けてきてしまった。だめだね、どうも。

 その後も涙は止まらないんですが、これはどちらかというと惰性の涙です。一番感動的なのは、やっぱり月夜の嫁入りだな。民子にとっては残酷な場面ですが、それを木下惠介はものすごく美しく撮っている。泣けます。


ホームページ
ホームページへ