セントラル・ステーション

1998/12/10 日本ヘラルド映画試写室
初老の女性と9歳の少年が、父親を捜すロードムービー。
文化の違いで内容に戸惑ってしまう。by K. Hattori


 「たぶんいい映画なのだろう」「観る人が観れば感動するのだろう」と思いつつも、個人的にはあまり感銘を受けない映画というのがあります。単に感性の違いということもありますが、映画が作られた国との文化ギャップに戸惑っている場合もある。この『セントラル・ステーション』という映画は、僕にとってまさにそういう映画です。丁寧に作られていることは認めるし、役者の芝居も悪くない。でも僕には、そこで描かれているブラジルの国柄や文化に、まず戸惑ってしまうのです。「なぜ彼らはこんな行動をとるのだろうか?」と疑問に思った瞬間、映画で感動することは不可能になります。これは映画が悪いわけじゃない。僕がブラジルという国に対して無知なのがいけないのです……。

 主人公のドーラは元教師だが、定年退職後は駅で代筆屋をして生活費を稼いでいる。ところが、彼女はこうして書いた手紙の多くを投函せず、家に持ち帰って勝手に開封してしまうのです。人間に対して辛辣な視点しか持てないドーラにとって、手紙の文面が真剣であればあるほど、それは欺瞞に満ちたもの。彼女は手紙を読んでせせら笑い、多くはくず箱に入れ、いくつかは部屋の引き出しにしまい込んでしまう。ある日、駅で出会った母子連れが父親に宛てた手紙を受け取ったドーラは、その手紙も引き出しにしまい込む。ところが翌日、再び父親宛の手紙を依頼した母親が、ドーラの目の前で交通事故にあって死んでしまった。残された幼い息子ジョズエは、母親を失い、父親のもとにも行けず、駅に取り残される。

 識字率が100%近い日本では、そもそも「代筆屋」という仕事が成り立たないのですが、これはまだ想像の範囲内。僕がわからなくなってしまうのは、駅の露天からラジオを盗んだ若者が、捕らえられた場所で射殺されてしまうこと。射殺した男は、警官なのか、駅の警備員なのか、地元のヤクザなのか……。殺された男の死体は、誰が始末するのか。それがさっぱりわからない。このエピソードは映画の中でかなり重要な位置を占めているのですが、ここで疑問に思ってしまうと最後まで疑問だ。

 僕はドーラという女性が、最後の最後まで好きになれなかった。彼女は代筆した手紙を捨てても、良心の痛みを感じない。自分が手紙を出したと信じ切っているジョズエの母親が目の前で死んでも、彼女はまったく心を動かされない。親切めかしてジョズエに近づいたと思ったら、怪しげな養子斡旋所に高額で売り飛ばしてしまう。ジョズエと一緒に彼の父親を捜す旅に出ても、機会あるごとに彼を捨てて逃げることばかり考えている。最後は父親に会えなかったのに、ジョズエを置き去りにして自分はリオに帰る。なんだか、すごく無責任。

 ブラジル人の家族関係や家族観がよくわからないので、ジョズエがあの後、異母兄たちとうまく生活して行けるのか疑問に思った。日本だったら、あの兄たちは絶対に弟を引き取らないと思うけどな。どうしても「おいおい、それで大丈夫なのか?」と最後まで心配してしまう。

(原題:CENTRAL DO BRASIL)


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