いさなのうみ

1998/11/13 新宿・Pomodoro
(映画之雑紙・創刊記念パーティー)
漁師町・室戸に暮らす高校生が、鯨に深く魅せられて行く。
室戸弁がローカルな魅力を引き出している。by K. Hattori


 高知県室戸の水産高校に通う主人公の少年が、クジラの化身ともいうべき不思議な少女と交流するファンタジックな青春映画。室戸は昔からの漁師町で、主人公の廉次も、自分が漁師になることに特別な不満はない。だが、水産業界は年々景気が悪くなっているし、漁師という仕事の未来は決して明るいものではないのだ。水産高校では漁師の卵を教育しているくせに、水産業の先行き不透明さや、将来の厳しさばかりを教えている。このまま漁師になるべきなのか、それとも別の道を探すべきなのか、廉次は少し迷い始めている……。

 タイトルにある『いさな』とはクジラの異名で、漢字では「鯨」「勇魚」と書く。(辞書で「いさな」を引くと、「小魚」「細小魚」という正反対の意味も載っていて面白い。)この映画の中では、クジラや捕鯨というモチーフが物語の中で大きな位置を占めているのだが、これは映画のテーマではない。クジラや捕鯨は、室戸という土地の歴史性や、主人公に先祖から伝わる漁師という仕事の象徴であって、映画の中心になっているのは、あくまでも進路に迷う少年の姿なのだ。主人公の少年は、自分の生まれ育った土地の歴史性や、自分の中に流れている漁師の血筋と向き合うことで、最後には自分の将来を決めることになる。ここには「将来性があるか」とか「高収入が見込めるか」「自分の個性が伸ばせるか」といった、世間一般の職業選択基準とは別のものがある。

 だからといってこの映画は「先祖代々の仕事を継ぐ少年」を、ことさらロマンチックな存在としては描いていない。主人公は漁業の将来について考えているし、漁師という職業が必ずしも実入りのいい仕事だとは思っていない。母親は「お前には公務員か何かになってもらいたい」と言っているぐらいだし、主人公もその言葉の意味することが十分すぎるほどわかっている。だが、主人公は最終的に漁師になるのだ。その後押しをするのが、不思議な転校生・京子との過ごした、ひと夏の出来事というわけだ。この映画はファンタジーだが、中心にあるテーマがきちんとしているから、ただの甘っちょろいおとぎ話にはなっていないのだ。

 映画は全編が室戸弁で、標準語でしゃべるのはオーストラリアから転校してきたという設定の京子のみ。確かに台詞の意味が読み取りにくい部分もあるのだが、話自体はシンプルなので困ることはない。この日は監督と主演俳優が同席しての上映会だったのだが、じつはこの映画、最初は台詞に字幕をつけようという話もあったらしい。結果としては、字幕がなくて正解だった。字幕が入ると、それを負うことに気がそがれて、映画に集中できなくなってしまうからだ。『いさなのうみ』の台詞は確かにわかりにくいが、字幕をつけてそれを補ったところで、この映画が今よりわかりやすくなったり、魅力が増すというものではないと思う。室戸の風景と室戸の言葉が見事にひとつになっているこの映画の魅力は、字幕が入ると損なわれてしまっただろう。


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