オープン・ユア・アイズ
(仮題)

1998/11/04 ル・シネマ2
東京国際映画祭/コンペティション
ハンサムな青年が事故で顔面に大けがを負って自信喪失。
彼が巻き込まれた悪夢のような世界を描く。by K. Hattori


 親の遺産で羽振りがよく、しかもハンサムで女たらしの青年セサールは、友人ペラーヨの恋人ソフィアと出会って心を動かされる。だがセサールは数回関係を持ったことのある女ヌリアにつけ回され、自動車で無理心中をはかられてしまう。ヌリアは死亡。セサールは一命を取り留めたが、大けがで顔にグロテスクな傷跡が残ってしまった。すべてを失い孤立したセサールはソフィアと再会し、彼女と付き合うようになるのだが、その頃から彼の周囲では次々と奇妙な出来事が起こるようになる。はたしてこれは、事故の後遺症なのか。あるいは悪夢なのか。それとも彼の精神が病んでいるのだろうか?

 映画は精神病院の一室から始まる。主人公セサールは、どうやら誰かを殺したらしい。精神科医アントニオは、セサールの心をほぐして彼に真相を語らせようとする。このミステリー仕立てで、映画は観客の心をわしづかみにする。セサールが何かを語り始めると、それが回想形式で観客の前に示されるという趣向だ。最近でも『記憶の扉』や『キャラクター/孤独な人の肖像』など、まったく同じ趣向の映画はいくつも作られているので、映画の形式としては珍しいものではない。特に『記憶の扉』との関連は濃厚で、主人公が取り調べを受けながら記憶をさかのぼってゆく過程や、最後のタネ明かしまで似通っている。もっともこうしたオチは、アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一件」(映画化タイトル『フクロウの河』)や『ジェイコブズ・ラダー』などの先行作品があるため、さほど目新しいものではないかもしれない。映画の世界では、いとつのジャンルになっているアイデアとも言える。(もちろん、このアイデアに初めて出くわした観客は衝撃を受けるに違いないが……。)こうした映画の場合、アイデアそのものより、観客に映画のイメージをいかに印象付けるか、このアイデアのうえに、どんなテーマを盛り込むかが勝負になる。

 この映画はビアスというより、むしろ荘子の「胡蝶の夢」に近い印象だ。あるいはフィリップ・K・ディックの「ユービック」かもしれない。現実と夢の境界がどこまでもあやふやで、夢が現実になり、現実が夢になる。両者を区別する方法を、人間は持っていないのだ。観客は主人公に感情移入し、どちらが夢か現実かを見極めようとするが、主人公は眠ったり目覚めたり悪夢にうなされたり、さらに夢の中で別の夢を見たりを繰り返すため、足元はいつまでたっても定まらない。主人公も不安だろうが、観客も不安になる。そもそも「映画」はフィクションという「夢」なのだ。主人公も観客も、この映画の製作者たちに手玉にとられるしかない。単純な「夢オチ」では納まり切らないところが面白いのだ。

 現代の映画は、作り手のどんなイメージでもフィルムのうえに定着させることが可能だ。ことに「夢」を扱った映画の場合、監督の映像構築センスが問われてしまう。この映画の監督は『テシス/次に私が殺される』のアレハンドロ・アメナーバル。素直に面白いと言える映画だ。

(原題:Abre Los Ojos)


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