PARAISO

1998/10/29 イマジカ第1試写室
父の遺言でキューバを訪ねた若い女が出会う真実とは?
脚本が悪いし、芝居も下手すぎる。by K. Hattori


 父の遺言でキューバにいる「MAKOTO」という人物に荷物を届けに来た若い女性が、そこで亡き父から自分に送られた宝物に気づくというヒューマン・ストーリー。ヒロインの栄子を演じているのは、歌手の南英子。彼女がキューバで出会う日系人カルロスを演じているのは、ミュージシャンの北村シンヤ。日本人の父とキューバ人の母との間に生まれた春子を演じるのは織平真由美。監督はこれが劇場映画デビュー作となる高橋宏辰だ。

 タイトルの『PARAISO』とは、英語の「パラダイス」にあたるスペイン語。つまり、天国のことだ。この映画では、栄子が訪れるキューバを「天国」に例えているらしい。映画にはキューバの町や雄大な自然、そこで暮らす人なつっこい人々、陽気なサルサのリズムなどが繰り返し登場して、「キューバよいとこ一度はおいで」というメッセージを観客に向かって投げかける。おそらくこれが、この映画の一番の目的でしょう。問題は、映画に登場するキューバが、それほど魅力的に見えないところかもしれません。少なくとも僕はこの映画を観ても、「キューバに行きたい!」という気持ちにはなれなかった。なんだかきれい事ばかりが描かれているような気がして、全体にすごく嘘臭いのです。本当にキューバの魅力を描こうとするなら、途中でキューバのマイナス面や陰の部分もきちんと描いて、主人公がその欠点を乗り越えて行く様子を描いた方がいい。この映画には、そうした作劇上の工夫がほとんどないのです。

 日本映画の父・マキノ省三は、よい映画の条件を「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」と定義したそうです。スジとは、物語の筋立て、つまりは脚本のこと。ヌケとは、画面のヌケ、つまり映像の美しさ。ドウサとは、役者の動作、つまり芝居や演技のことです。三拍子そろった映画がベストですが、なかなかそうした映画はない。この『PARAISO』という映画は、スジとドウサの面で致命的な欠陥を持っています。

 この映画は、主人公の置かれた状況や心理を、すべて台詞やモノローグで説明するという、およそ映画らしからぬ手法を多用しています。特に映画の導入部は、主人公のモノローグですべてを説明する展開。これではまるで朗読劇です。これは他にもっとスマートな方法が考えられるはず。例えば、主人公の父の葬儀が一段落したところから物語を始めて、遺品の整理中に箱と手紙を発見するまでを描いてしまい、そこから出し抜けにキューバに場面を移動させた方が印象が強まるし、モノローグではなく、台詞で説明できる部分も増えます。もっとも、この映画は台詞回しもひどくぎこちなく、あまりの奇妙さに笑ってしまうような場面もありましたが……。

 低レベルの芝居をけなすときに、よく「学芸会レベル」などと言いますが、この映画は文字通り「学芸会レベル」の芝居が見られます。主演の南英子が特にひどい。会話のシーンでカットを割って人物の顔のアップでつないでゆくのは、出来損ないの小津安二郎のようでした。


ホームページ
ホームページへ