コキーユ
貝殻

1998/10/14 シネスイッチ銀座(試写会)
山本おさむのコミックを映画化した中年男女のメロドラマ。
脚本に難あり。演出も切れ味悪し。by K. Hattori


 山本おさむの同名コミックを、『12人の優しい日本人』『櫻の園』の中原俊監督が映画化したメロドラマ。中学校の同窓会で30年ぶりに再会した中年男女が、中学時代には実ることのなかった初恋をやり直そうとする話です。主演は小林薫と風吹ジュンなので、「40代半ばの中年男女の恋」といっても、へんに汚らしい感じはしない。タイトルの『コキーユ』というのは、ヒロインの風吹ジュンが開いているスナックの名前。これが「ジャン・コクトーの詩」「プレゼントの貝殻」などとつながって、彼女の小林薫に対する変わらぬ気持ちを象徴しています。僕は原作を読んでいませんが、プレス資料の解説やストーリー紹介を読む限り、「これはすごい傑作になりそうだ」「ちくしょう、また泣かされちゃうのかな」と大いに期待していた。でも映画を観ると、どうもイマイチなんだよね。僕はいろいろ考えた末に、「これは脚本がダメなんだろう」と結論付けた。

 主人公たちの恋は風吹ジュンがリードする形ではじまり、小林薫はそれに少しとまどいながらも、やがて彼女と愛し合うようになる。ところが映画ではその「とまどい」の原因がじつに曖昧なのです。彼は何にとまどい、躊躇しているのか。「家庭」との問題か、「仕事」との問題か、「彼女の家族」や「別の男」への複雑な感情か、それとも「なぜ30年もたって」という素朴な疑問と懐疑心か。もちろん主人公の「とまどい」はこれらの混合物なのでしょうが、物語を作る際には、その原因の焦点を絞っていかないとドラマの中に葛藤が生まれない。例えば「彼女は本当に俺のことを30年も思い続けていたのだろうか?」という疑問に焦点を絞ってしまえば、最後にプレゼントの貝殻が登場したとき、すべての疑問が氷解して、感動がドッと押し寄せてくると思います。

 これは脚本と演出の両方の問題でしょうが、クライマックスからラストシーンに至る部分に、同じような「感動のポイント」が連続してしまい、感動の焦点がぼけていると思いました。ラストシーンで泣かせるのか、その前の場面で泣かせるのか、じつに曖昧な作りなのです。僕はラストシーンより前で泣いてしまったので、ラストシーンでは逆に少し白けた気分で映画を観ていた。「俺はもうさっき泣いたのに、お前は今頃何をしているんだ!」と思っちゃいました。これは脚本の構成を変えるか、もしくは演出で最後にドッと泣ける仕掛けを作っておかないと、映画の印象がボケてしまいます。

 過去の思い出話を、ハイキー調の再現ドラマでカットバックしてゆくのも、ありきたりすぎてつまらない。せっかく芸達者なふたりが主役なんだから、最後のポイント以外は、会話だけで思い出話に花を咲かせても面白かった。再現ドラマをむやみに多用すると、テレビのトーク番組やバラエティ番組みたいで安っぽくなります。

 前作『Lie lie Lie』が興行的に失敗した中原監督には同情しますが、今回の映画は前作ほどの切れ味がまったくない。まるで別人が作った映画のようでした。


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