白痴

1998/09/08 メディアボックス試写室
ドストエフスキーの原作をジェラール・フィリップ主演で映画化。
黒澤の『白痴』と比べて一長一短。by K. Hattori


 ドストエフスキーの原作を、ジェラール・フィリップ主演で映画化した1946年のフランス映画。上映時間は1時間38分。僕は原作を読んでいませんが、同じ原作を黒澤明が映画化した1951年の『白痴』は観ている。黒澤版は前後編4時間の作品を2時間45分に短縮したもので、上映時間がぜんぜん足りないのが観ていてもよくわかった。僕は黒澤版を観て「すごい映画だ」とは思ったものの、話はいまだに理解できていない。今回シャルル・スパークが脚本を書き、ジョルジュ・ランパンが監督した本作を観て、「なるほど、そういう話だったのか」と初めて理解できたところもあった。やはり、最初から1時間半を前提に構成されていると違います。余計な枝葉や脱線がなくて、全体がシンプルになっている。もっともシンプル過ぎて、主人公ムイシュキン公爵、ナスターシャ、ロゴージンらの苦悩がやや平板になっている気もしましたが……。これは濃厚な黒澤版と比べてしまえば、どんな映画だってそう感じます。

 短い時間で物語をまとめるため、この映画ではムイシュキン公爵を中心にエピソードをまとめています。ところがムイシュキンという男は「聖なる白痴」ですから、観客はなかなか彼に感情移入しにくい。彼の魂は純真無垢すぎて近寄りがたいのです。むしろこの映画では、ヒロインのナスターシャがよく描けています。彼女は16歳の時に地主のトーツキイに強姦され、そのまま彼の愛人として8年を過ごした不幸な女です。その上、愛人トーツキイがエバンチン将軍の娘アグラーヤと婚約することが決まるや、持参金付きで将軍の秘書に押し付けられそうになる。彼女の人格は無視され、愛玩動物か高級家具程度の扱いしか受けていないのです。彼女はそんな自分の惨めさから逃れるために、ことさら驕慢な態度をとって見せる。彼女の態度の裏にある、ずたずたに傷つけられた心に気付くのは、同じように傷ついた心を持つムイシュキン公爵だけなのです。

 黒澤版では森雅之がムイシュキン公爵、原節子がナスターシャという配役でしたが、この映画ではジェラール・フィリップがムイシュキン、エドウィージュ・フイエールがナスターシャを演じています。このふたりは、すごくいいと思いました。特にフイエールの演技がいいです。ただし、このふたりと並ぶ重要人物ロゴージンは、黒澤版の三船敏郎の方が何倍も優れていると思う。この映画でロゴージンを演じているリュシアン・コエデルは、粗野で嫉妬深く乱暴な男にしか見えない。本当は彼の心も、ムイシュキンやナスターシャと同じぐらい繊細なんだと思います。でないと、この3人の奇妙な三角関係が成立しないように思うのです。

 物語にはキリスト教的な「愛」の概念が色濃く影を落としています。それに共感できないと、この映画は本当には理解できないと思う。その点、黒澤は日本人だから原作から宗教を抜き去って人間だけを残し、濃厚な人間ドラマを作れたのかもしれません。

(原題:L'idiot)


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