沈黙のジェラシー

1998/07/10 ソニーピクチャーズ試写室
ジェシカ・ラングが息子の嫁グウィネス・パルトロウに殺意を抱く。
嫁姑問題はアメリカの方が過激だった! by K. Hattori


 クリスマス休暇に恋人の実家を訪れたヘレンは、彼の美しい母親マーサからの親切なもてなしを受ける。恋人ジャクソンの実家は、ケンタッキーの大農場。ニューヨークで自由な同棲生活を満喫していたふたりは、やがてヘレンの妊娠を機に結婚し、ケンタッキーの農場に戻ることになった。ところがこの頃から、マーサの異様な言動がヘレンを苦しめはじめるのだった……。

 世の女性はマザコンの男がお嫌いのようですが、どんな男にも、多かれ少なかれマザーコンプレックスの気はあるものです。ましてやこの映画のジャクソンのように、幼い頃に自分の過失で父親を亡くし、その秘密を母親とふたりだけで共有してきた息子になれば、母親との関係が特別のものになるのも当然でしょう。母親にとっても、いつまでも自分をちやほやしてくれるマザコン息子は、決して気分の悪いものではない。でもその息子が結婚して子供が産まれれば、さすがのマザコン息子でも、愛情が妻子に向くことは想像に難くない。自分は忘れ去られてしまうのではないか……。そんな不安から息子の嫁に辛く当たったり、有形無形の意地悪をしてしまうのが人間というものです。でも、それにも限度がある。

 この映画の序盤で、主人公の友人デビ・メザーが「離婚の半分は夫の母親が原因だ」と言います。嫁姑の問題は、封建的な家制度の残滓が生み出す、日本独自のものじゃない。その現われ方は違っても、嫁姑の確執は世界のどこにだって存在するのです。姑マーサの心の中には、自分と息子の間に現れた闖入者ヘレンに対する殺意がありますが、それは一般的な「嫁姑の確執」という問題の中に拡散され、すぐには目に付かない。マーサの言動の異常さは、息子を溺愛する母親の浮かれた勇み足として、「よくある事さ」「そのぐらいは許さなくては」という常識的判断にかき消されてしまうのです。

 グウィネス・パルトロウ扮するヘレンは、幼い頃に両親を亡くし、家族の存在に餓えています。だからこそ、多少の不満も我慢することが必要だろうと、あえて自分の直感を押え込む。このあたりは、脚本段階での人物設定が効果的に主人公を追い込んでいます。ジェシカ・ラング扮するマーサも直接ヘレンと対決することを巧妙に避けるため、ジャクソンを間において「私とこの女のどっちを選ぶのよ!」という修羅場を演じることがない。彼女は自分の腹黒さを隠しながら、用意周到にヘレンに罠をかけて行く。マーサが時折見せる嫉妬に狂った表情や敵意に満ちた視線は、ヘレンやジャクソンの目に映ることがない。このあたりの一瞬の表情の変化を、ジェシカ・ラングが本当に上手に演じています。

 映画の中心がヘレンとマーサの対決中心になり、ジャクソンをはさんだ三角関係が弱くなっているのが残念。最後の対決シーンと決着に、やや唐突な印象を受けるのはこのためでしょう。彼は中盤以降、母親と妻の間でもっと揺れ動く必要があるし、母親に対する密かな疑念も、伏線としてちりばめておくべきでした。

(原題:HUSH)


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