新釋四谷怪談
(後篇)

1998/07/04 国立近代美術館フィルムセンター
いよいよ伊右衛門と直助が復讐されるはずが、幽霊なしでは迫力不足。
芝居が煮詰め不足で、人間心理の恐さが伝わらない。by K. Hattori


 いまいち不完全燃焼気味だった前篇に比べ、伊右衛門や直助が悲惨な死を遂げる後半の方が当然面白いだろうと思いきや、これが前篇とあまり代わり映えしない不完全燃焼映画。やはり幽霊抜きの四谷怪談というアイデアは、アイデアの面白さはともかく、迫力不足になることは間違いない。この映画ではクライマックスの火事の場面に迫力があり、ようやく映画として唸らせる場面にたどり着いたという感じ。前篇の冒頭が大雨で、後半の最後が火事だから、全編通せば一応はきちんと構成されているのかな。でもやはり全体で観ると、これは気の抜けたぬるいサイダーみたいな映画だと思う。

 この映画で笑っちゃったのは、お岩が殺された時着ていた着物を妹の袖が着て、伊右衛門に面会しに行く場面。良心の呵責に耐え切れなくなっていた伊右衛門は、その姿を岩の姿と混同して斬りかかる。夫に付き添われて命かがらが逃げ出したお袖に対し、いつの間にか部屋から姿を消した「お岩」に驚く伊右衛門は「やはり幽霊か」とつぶやく。幽霊の正体見たり枯れ尾花。疑心暗鬼の目で見れば、どんなものでも幽霊に見えてしまうと言うオチです。そんなに「科学的合理性」にこだわる必要が、この映画にあるんだろうか。お袖が岩とうりふたつという設定も、この伊右衛門との面会のためだけに用意されていた筋立てのようで、なんだか気の毒になってしまう。

 妻を毒殺した良心の痛みに震える伊右衛門に対し、最初から開き直っている直助の格好よさ。しかし彼も後半になって、いらぬ欲をかいたおかげで破滅することになる。こうした因果応報譚こそ、もっとも不合理な気がするけどな。この映画は「幽霊」という不合理は排除しながら、「偶然の一致」「因果な巡り合わせ」という不合理は残したままです。そこに僕は、この映画の中途半端さを感じてしまうのです。

 伊右衛門を追い込んで行くなら、もっと徹底的に追い込んでほしい。普通の人なら自殺しかねないぐらいに追い込んで、ノイローゼでふらふらになっても、伊右衛門は自殺する度胸がないから自殺しない。最後には乱心して周囲の者を斬って斬って斬りまくる……のは占領中だと無理なので、せめてお梅を絞殺し、逃げ延びようとする直助に斬りつけられながらも、血まみれで彼の足元にすがり付いて、一緒に焼け死んでほしい。そこまでやってはじめて、炎の中のお岩の幻影が生きてくる。この映画だと、最後のお岩の幻影すら、ちょっと中途半端だもんね。おとなしい優男の下に眠っていた狂暴性が、最後の最後になって爆発的に外にあふれ出てくる様子が観たかった。最後まで分別臭い伊右衛門に、魅力はないぞ。

 鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は、サイレント時代から何度も映画化されてきた怪談映画の古典レパートリー。戦後になって初の映画化がこの木下恵介版だったので、当時の観客の期待の大きさと、失望の大きさは想像にあまりある。この映画からちょうど10年後、中川信夫の傑作『東海道四谷怪談』が生まれています。


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