肉体の学校

1998/06/11 パシフィコ横浜
(第6回フランス映画祭横浜'98)
三島由紀夫の原作を現代フランスの男女関係に翻案。
男に周囲を魅了するカリスマ性がない。by K. Hattori


 原作が三島由紀夫ということで、日本とは馴染みの深い映画です。映画の中に剣道の場面が出てきたり、高級日本料理屋が出てくるのは、原作者に敬意をはらってのことかもしれません。監督は『シングル・ガール』のブノワ・ジャコ。主演はイザベラ・ユペールとヴァンサン・マルチネス。事前に開かれたマスコミ向けの記者会見では、ユペールがこの映画について「男性のようにふるまう女性と、女性のようにふるまう男性という、現代的なテーマのドラマだ」といった発言をしていたのですが、これはそう簡単に「男女の役割逆転」というふうに割り切れない部分もある映画です。もっと緩やかに、恋愛やセックスに対して貪欲で積極的な女性と、そんな女性に対して常に曖昧な態度をとり、常に受け身で逃げ腰の男性を描いたドラマという印象を受けました。

 裕福で社会的な地位もある中年女性ドミニクは、友人と訪れたゲイたちの集まるバーで、美しい青年カンタンと出会って心を奪われます。彼女はカンタンに仕事をやめさせて自分の部屋に住まわせ、財政的な支援をし、モデルの仕事を捜してやるなど、惜しみない援助の手を差し伸べる。しかしカンタンはそんなドミニクにつれない態度をとり、自分はどんな立場にいても自由なのだと宣言し、友人たちと遊び回っている。自分から逃げ回るカンタンを、なんとか自分のもとに引き止めておきたいと願うドミニクは、彼の仕事仲間や昔の恋人のもとを訪ねたり、彼を尾行してみたり、それは涙ぐましい努力をするのだが、カンタンの素行は改まらない。やがてふたりの間には決定的な破局が訪れることになる……。

 共に暮らしながら、あの手この手を使って何とか相手を自分の望む生活ペースや恋愛スタイルに押し込めようとする恋愛関係。これはもう、恋愛というより政治に近い世界です。政治が得てして政策議論より政治的駆け引きを自己目的化してしまうように、恋愛の中に不可欠の要素として入り込んでくる駆け引きが、それだけで自己目的化してしまっている滑稽さ。ドミニクはその滑稽さを自覚しながらそこにはまりこみ、カンタンは駆け引きに長じながら、それを嫌悪し軽蔑する。こうしたふたりの態度の違いが、両者の関係を冷え冷えとしたものにしていくのです。でもふたりは、関係の一切を清算することができないまま、ずるずると関係を持続させる。

 この映画では、ドミニクがなぜカンタンのようなつまらない男に執着するのかが、ちょっとよくわからない。彼は物語の後半で、今度は逆に若い女に対して保護者のように振る舞うのだが、その二面性の面白さや複雑さのようなものが、ヴァンサン・マルチネスという俳優の中で、うまくひとつにまとまり切れていないような気がします。カンタンの性格はふたつに分裂して、それぞれがひどく薄っぺらなものに見える。ゲイの男たちを魅了し、女ふたりを手玉にとるような男には見えないのです。そこがこの映画の弱さになっている。ラストシーンも、かえってサバサバした印象しか残りませんでした。

(原題:L'ECOLE DE LA CHAIR)


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