二宮金次郎物語
愛と情熱のかぎり

1998/06/03 松竹第1試写室
苦学と親孝行で有名な二宮金次郎の伝記映画だが……。
なぜこの映画を、今作るのだろう? by K. Hattori


 二宮金次郎は、戦前には修身の教科書にも載っていた超有名人。貧しい農民の子でありながら、子供の頃から勉学にいそしみ、柴を背負って大学を読みふける姿は、銅像として全国の小学校の校庭に置かれていた。戦後も苦学と親孝行の象徴的人物として、ことある毎に教科書や伝記で取り上げられていたので、ある程度年配の人にとっては馴染みの人物だろう。金次郎は後に農地の復興に生涯を捧げる、立派な人物になった。彼の創始した報徳社は全国的な組織となり、今でも彼の人柄や思想をしのぶ人たちは多い。この映画は、そんな二宮金次郎の伝記映画だが、正直言って僕は、今時こんな映画をなぜ作る必要があるのか疑問に思ったし、この映画が何を観客にアピールしようとしているのかわからなかった。

 この映画がよくわからないのは、物語が金次郎の家の没落と彼の苦学ぶりや親孝行ぶりばかりを強調し、その後に用意されている立身出世の部分を描いていないからです。「若い頃の苦労は買ってでもしろ」などと言いますが、これは「苦労した経験が人間を豊かにする」という意味だと思う。苦労の後に用意されている「人間的成長」や「社会的成功」という果実があるからこそ、「苦労が報われる」のです。この映画は、金次郎の「苦労が報われる」場面をきちんと描いていない。結果として、「二宮金次郎は貧乏でした」「勉強して、働いて、親孝行しました」という部分だけが強調されるのには、「だからどうした!」と言いたい気分です。苦労したり苦学すること自体が目的化してしまうのは、ちょっとおかしいと思う。描くなら、その後の姿もきちんと描いてくれ。

 結局この映画はどこまでも『二宮金次郎物語』であって、『二宮尊徳物語』ではないのです。成長した金次郎は、見事に没落した二宮家を再興し、その後、小田原藩家老・服部家の財政再建に成功した実績を買われて、各地で農村の改革運動に実績を上げて行く。僕としては彼のそうした「思想家」「運動家」としての面をもっと見たかった。それなしに苦学ぶりばかりを強調していては、昔学校の校庭にあった銅像と変わらないではないか。

 物語の時代背景は江戸時代末期ですが、台詞回しなどの面で、いかにも「現代語調」の部分があって違和感を持ちました。お百姓さんが漢語交じりの言葉をしゃべったり、女性が言葉じりに「よさね」をつけたり……。時代劇の場合、言葉づかいだけで人物の身分や性格まで全部わかってしまうものです。それは昔の時代劇を観たり、落語をきいたりすればわかることです。このあたりは、もっと気を遣ってほしかった。また描写のいろいろな点に、明らかに現実にそぐわない面があり、白けることもおびただしい。物語の背景となる事柄を、すべて台詞で説明しようとする態度も気に食わない。

 言葉づかいが時代劇としては滑稽で、全体に段取り芝居が見え見えなので、物語の印象がペナペナに薄いのです。僕は金次郎が不幸になればなるほど、おかしくて笑ってしまった。後半は退屈であくびが出たぞ。


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