夏の夜の夢

1998/05/08 東和映画試写室
RSCのエイドリアン・ノーブルが演出したシェイクスピア喜劇。
舞台劇風の演出が面白いけど……。by K. Hattori


 シェイクスピアの同名戯曲を、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)の芸術監督エイドリアン・ノーブルが映画化。彼自身、舞台で何度もこの作品を演出した経験があり、今回の映画では出演者もほとんどがRSCのメンバー。そんなこともあって、これは劇映画というより、舞台劇をそのまま映画風にアレンジし直したものだと考えた方がしっくりくる。

 原作戯曲を生かした台詞回しや掛け合い芝居、抽象的な舞台セットと場面転換など、舞台劇の演出をそのまま映画に取り入れているようだ。同じRSC関係者が作ったシェイクスピア映画でも、ケネス・ブラナーの『ハムレット』やトレバー・ナンの『十二夜』は、舞台劇を単に映画に移し変えるのではなく、舞台上の約束事を、映画の約束事に置き換える工夫をしていた。でもこの『夏の夜の夢』は、物語の中身そのものには、ほとんど映画らしさを感じさせない。ビデオ収録の演劇やオペラ、あるいは舞台中継を思わせる演出です。唯一の映画的工夫は、物語の傍観者として、ひとりの少年を登場させたことぐらいかな。この映画は正確には「舞台劇の映画化」ではなくて、「舞台劇の映画」なのかもしれません。

 こうした「舞台劇の映画」については、観る人の立場によって賛否の反応が別れると思う。僕は板の上のお芝居も嫌いではないので、この手の試みは積極的に評価してもいいと思ってます。この映画は、映画全体を「少年の夢」という枠に入れることで、『夏の夜の夢』が「劇中劇」として成立するようになっている。このワンクッションがあるから、舞台劇風の演出もあまり違和感はないはずです。ただし問題は、そこまでして徹底した舞台劇演出が、映画の中で成功しているかどうかだと思う。

 映画の中に登場する印象的な装置に、セットの上から吊るされた多数の電球がある。この場面にあるのは、電球と広い床板と、林立するドアだけ。この装置で、電球を上げ下げすることで、そこを妖精の国に見立てたり、深い森の中に見立てたりするわけです。森が持っているいくつもの表情を、この簡素なセットで表現している。こうした表現はまさに舞台のものですが、映画の場合はたぶん、舞台の上で演じる時ほど、この装置は役に立たなかったと思う。観客が1点に固定している舞台劇では、舞台装置を動かすことで、物語の背景に千変万化の変化を作り出すことができる。でも映画の場合は、カメラの視点が次々変わるので、装置の動きをカメラの動きが相殺してしまうのです。もちろんバズビー・バークレーの映画のように、カメラと装置の相乗効果で、舞台では得られない効果を生み出すこともできるのが「映画」なのですが、この映画はまだそこまで到達していないと思う。

 映画の中で一番感銘を受けたのは、中盤の妖精の国の場面ではなく、最後の素人芝居の場面だった。誰が見てもリアルとは程遠い舞台装置と衣装、下手糞な台詞回しにも関わらず、芝居は人を感動させ得る。観客と舞台の上との理想的な協力関係が、ここには描かれています。

(原題:A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM)


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