みちくさ日和

1998/05/04 有楽町朝日ホール
映像による絵本のようなファンタジックな物語だが……。
中身はサイレント映画のイミテーション。by K. Hattori


 日映協フィルムフェスティバルの学生映画部門に出品された作品で、選外ながら特別上映された作品。監督・脚本は三宅隆太。東京工芸大学芸術学部映像学科が製作協力した、19分の短編映画だ。公園のベンチで読書をしていた若い女性が、白ひげの不思議な男に出会う。彼は鈴虫で、ベンチの後ろの木に息子と二人で住んでいるらしい。昨晩近くに落ちた流れ星を、息子に頼まれて探している最中だというのだ。女性はこの鈴虫と一緒に、流れ星を探して公園中を歩き回る。やがて星が見つからないまま男は姿を消し、女性はトランクの中の金平糖を数粒、木の根本に置いて立ち去る。女性を見送るように、鈴虫男と小さな男の子が姿を現し、彼女に向かって手を振る。物語は、要するにこれだけなのです。

 この映画のもっともユニークな点は、生の台詞を廃し、台詞字幕(スポークン・タイトル)を使ったサイレント映画になっていることでしょう。音楽とSEは入っているので、サイレント映画のサウンド版みたいな感じです。ビデオでチャップリンの映画を見ると、ちょうどこんな感じになってます。作り手側も往年のサイレント映画を意識しているらしく、所々でスロークランクを使ったコマ落し撮影をしたり、ラストシーンには古いカメラで撮影したフィルムを挿入したりしている。こうした作り手の映画に対する思い入れみたいなものは、僕は嫌いではない。現代劇において、サイレント技法はもっといろいろな実験が行われてもいいと思っている。しかしだからこそ、この映画には我慢できない点もあった。

 サイレント映画は「音のないトーキー映画」ではなく、それ自体で完成した映画形式です。サイレント映画には確かに音がありませんが、音がなくても音を感じさせる芝居やタイトルの様々なテクニックが考案されていました。サイレント映画で表現できないものは、まったくないと考えてもいいでしょう。チャップリンは完成されたサイレント映画を愛し、ハリウッドの中ではもっともトーキーへの進出が遅れたことは有名です。(黒澤明が完成されたモノクロ映画の技術を愛し、カラーになかなか踏み込まなかったのと似てますね。)

 ところがこの『みちくさ日和』では、サイレント映画を「音のないトーキー映画」にしてしまった。サイレント映画にはサイレント映画の演出があるのに、それをせずに、形式的にサイレント映画を作ったところで、それは出来損ないの中途半端なものでしかない。僕がこの映画で一番がっかりしてしまったのは、鈴虫が鈴を鳴らそうとして鳴らないという場面で、画面に「シーン……」というタイトルが出ること。この場面は、芝居だけで「音が出ないこと」を感じさせなきゃ駄目だよ。この字幕を出したことで、この映画はもう失敗なのです。

 スポークン・タイトルの付け方で、映画にもっとリズムを出す方法もあったはずだけど、それが考慮された形跡がない。もっとサイレント映画を勉強してから編集すると、今の5倍や10倍は面白くなったと思うよ。


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