悪魔を憐れむ歌

1998/04/13 ワーナー映画試写室
現代に生き続ける悪魔と、殺人事件を捜査する刑事の戦い。
物語にアラがありすぎて興ざめする。by K. Hattori



 「悪魔のような連続殺人鬼」の正体は、「連続殺人鬼にとりついた悪魔」だったというお話。逮捕された連続殺人犯は処刑されても、身体から抜け出した悪魔は別の人間に乗り移り、また同じような犯行を続けるのだ。事件を担当した刑事は、犯人が処刑された後、同じ手口の事件が連続して発生したことから、最初は事件の模倣犯(コピーキャット)だと考える。しかし、模倣犯にしては犯行の手口がそっくりすぎる。まるで犯人自身か、捜査にあたった警官が現場を再現したかのような手口なのだ。刑事は模倣犯説を捨て、処刑された犯人に共犯がいたという説を仮定してみる。あるいは、処刑された犯人とその後の犯人を、裏で操っている第三者の存在を考えてみる。しかし今までの捜査が、そうした仮説をすべて否定しているのだ。やがて刑事は、死刑囚が死の間際に彼に語った言葉の中から、事件解決のヒントを探り出す。

 アイデアは面白いけど、脚本時点で細部まで詰め切れないまま映画になった典型例。悪魔の性格や特徴については、揚げ足取りがいくらでもできてしまいそうだ。悪魔に人間と同じ倫理観を求めようとは思わないが、彼の目的が何なのかは明確にしておかないと、サスペンスが盛り上がらない。彼は刑事に乗り移って、何をやるつもりなのか。何がなんでも主人公の刑事に乗り移りたいという悪魔の気持ち(?)が、僕には最後まで飲み込めなかった。悪魔が刑事に復讐しようとしているのか? 人類発生と共に、数千年を生き続けている悪魔が、なぜたったひとりの刑事にこだわるのか理解できない。こうした点を合理的に説明できる種が映画の中にはいくつも用意されているのに、それを使わないのは不可解だ。

 警察内部で主人公が孤立して行く過程にも、ずいぶんと穴がある。このあたりは、もっと用意周到に罠を張って、主人公をがんじがらめに縛り上げてほしい。この映画では、主人公の捜査が署内で妨害されそうになる理由が弱いし、事件の嫌疑が彼に向けられる理由も希薄、正当防衛が責められるにいたっては何事かと思ってしまった。30年前に自殺した刑事に関しても、物語の中でもっと密接な結びつきが必要だと思う。自殺した刑事の娘と、主人公のパートナーシップも強引すぎる。30年前の事件について調べはじめた主人公に向かって、上司も自殺した刑事の娘も、口をそろえて「調べない方がいい」「知らない方がいい」と言うのはなぜなのか。単に30年前の事件が警察にとって不名誉なものだったという理由だけで、ここまで強い拒絶反応が出るだろうか。

 人から人へと次々タッチして行くことで、悪魔がどんどん移動して行くシーンは面白い。でもこれって、悪魔憑きというより「鬼ごっこ」だと思う。繁華街を逃げるヒロインに悪魔が追いすがろうとする場面は、大人たちが大真面目な顔で鬼ごっこに興じているようで微笑ましいぐらいだ。どっちにしろ、『ディアボロス/悪魔の扉』を観てしまった後では、この映画の悪魔には、あまり新鮮さも、新しさも、驚きも感じることはない。

(原題:FALLEN)



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