東宮西宮

1998/03/18 東和映画試写室
夜の公園で逮捕されたゲイの青年と、逮捕した警官の葛藤。
室内劇が「映画」としてこなれていない。by K. Hattori



 中国のゲイ問題を扱った映画として話題になり、中国本国では上映禁止になっている作品。夜の公園に日ごと集まりパートナーを探すゲイたちと、それを取り締まる警察。中国では同性愛が法的に禁じられている上、いまだ病気として治療の対象になっているらしいのです。タイトルの『東宮西宮』というのは、北京にある紫禁城の公衆トイレのこと。ここが北京のゲイたちの溜まり場になっていることから、北京ではゲイコミュニティーそのものを指す隠語になっているのだそうです。(本当か嘘かは知りません。資料にそう書いてありました。)

 この映画は、公園で逮捕されたゲイの青年と、彼を逮捕した警官が、派出所で一夜を過ごすという話です。若い警官は青年を尋問し、調書を取る。そこで明らかにされて行く、青年の過去と現在。北京のゲイたちの日常や、ゲイたちの心理が、青年の口から少しずつ解き明かされて行きます。派出所の中にいるのは警官と青年のふたりきり。じつは青年は警官のことが好きで、わざと逮捕されたことが途中で明らかになる。逮捕した警官と、逮捕されたゲイというふたりの関係は、いつしか互いの立場を超えた個人的葛藤になってゆく。映画が進むにつれて、警官の中にもある同性愛的傾向が明らかになってくる。

 物語の中心部分が、派出所の室内だけで進行することと、登場人物がふたりきりという点から、全体に舞台劇のような仕上がりになっています。途中で回想シーンが短く挿入されるところがあるものの、舞台に広がりがないという印象はなくならない。全体にすごく台詞の多い映画だし、人物の葛藤だけを延々映し出して行く構成になっているので、これは舞台劇にした方が面白いかもしれない。映画としての魅力は薄いと思います。

 登場人物ふたりがずっと喋り続ける映画ということで、僕はフランス映画『真夜中の恋愛論』を思い出した。『真夜中の恋愛論』は、室内劇ながらちゃんと「映画」として成立している作品です。確か、回想シーンのフラッシュバックなども使っていなかったと思う。会話の流れに起伏があって、それがドラマに豊かな肉付けをしているわけです。観ている最中に、ふたりの関係がどんどん変化して行くのがよくわかる。ところが『東宮西宮』は、会話がまったく生きていない。

 尋問する警官と尋問される男が、警察署の中で一夜を過ごすという物語なら、トルナトーレの『記憶の扉』という映画もあった。これは断片的なフラッシュバックを多用したミステリーですが、第一級のエンターテインメントになっていた。室内劇だからといって、必ず舞台劇風になるわけではない。映画作品としての工夫で、いくらでも映画としての面白さは出せるはずなんです。

 『東宮西宮』には、観客を映画の中に引っ張り込むだけの魅力がない。この映画が「北京のゲイ問題」という社会現象を扱っているならまだしも、途中から完全に個人対個人の私的葛藤になってしまうため、人物に魅力がないことが致命的な傷になってしまった。

(原題:東宮西宮)



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