OTSUYU
怪談牡丹燈籠

1998/03/12 ユニジャパン試写室
夏生ゆうな、大鶴義丹主演で圓朝作「怪談牡丹燈籠」。
人物の性格付けが弱い点が致命的。by K. Hattori



 明治期に活躍した三遊亭圓朝の怪談噺「牡丹燈籠」を、夏生ゆうな、大鶴義丹主演で映画化。原作「牡丹燈籠」は、鶴屋南北の「東海道四谷階段」と並ぶ有名な古典怪談だが、もとは中国の妖怪話に取材した翻案もの。かなわぬ恋に身を焦がし、自害して果てた女の幽霊が、夜な夜な男のもとに通うという物語だ。この映画では物語を、輪廻の鎖の中で永遠に繰り返される男と女の因縁として描き、遠く戦国の昔から、江戸時代、そして現代へと続く男と女のドラマの一場面と解釈している。これは「時代劇」を少しでも現代の観客に親しみやすい場所まで引き寄せようという工夫のひとつだと思うが、それが成功していたとは思えない。こんなことをするぐらいなら、むしろ登場人物の性格付けなどを、もっと大きくいじってしまった方がよかったと思う。

 映画の中では、うじきつよし演ずる伴蔵のキャラクターに、多少現代風の味付けをしてある。しかしこれは、あまりにも表層的すぎてリアリティがない。彼の言動は型通りの反抗や反撥で終わってしまい、そうした言動の下にある彼の気持ちの本質が、映画を観ている我々とどうつながってくるのかという解釈がないのだ。この役は物語の狂言回しとして、物語と観客をつなぐ重要な役どころになれる立場なのだが、それを放棄して単なる点景人物に成り下がっているのは残念だ。彼が新三郎や露や鈴を見る視点に、もっと批判的で辛辣なものがあると、物語全体が生き生き躍動してきたと思うのですが……。

 戦国時代のエピソードで描かれた、「いざとなると逃げてしまう」という新三郎の性格付けが、本編である江戸期のエピソードで生きていなかったのも疑問です。彼が本当に露を愛していたのなら、露にとり殺されて本望ではありませんか。あくまでも生に執着する新三郎の心に、僕は感情移入することが出来なかった。ここはほんの一言だけでも、説明がほしいところです。説明と言えば、夫婦約束をしている鈴が自害したにもかかわらず、飯島家から新三郎に何の報告も来ないのはおかしい。露と結ばれた後、新三郎が露の死を知る場面を作れば、それがひとつの山場になるはず。なぜそれを物語中に設定しないのだろうか?

 夏生ゆうな扮する露と、鈴木淳奈が演じる鈴の性格付けに、顕著な差がないのも物語を平板にした。物語の流れからして、露は自分の思いを心に留めて大きく育ててゆく内向タイプであり、鈴が思ったことを比較的素直に口に出す外向タイプで、しかも直情実行型だということがわかる。ふたりの性格面での差を、もっと深く深く掘り下げて行くと、映画にはコクが出たと思う。

 映画を最後まで見てしまうのは、原作が持っている物語としての面白さに引かれている部分が半分と、演出の語りのよどみのなさが半分だと思う。欠点はやはり人物描写にあるが、これは監督の津島勝の責任が半分、脚本の本調有香の責任が半分だろう。新三郎や伴蔵はともかく、露と鈴の性格の違いは芝居でも付けられますからね。


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