SADA

1998/02/13 銀座セゾン劇場
(完成披露試写)
大林宣彦監督が描く、有名な猟奇犯罪「阿部定事件」の真実。
物語は単純すぎる。演出は幼稚すぎる。by K. Hattori



 万年少年・大林宣彦に、「エロスの極み」である阿部定事件が描けるはずないとある程度は予測していたものの、あまりにも予想通りの展開の映画だったことに、逆にビックリしました。この映画はシネマジャパネスク立ち上がりからラインナップに入っていた作品ですが、主演が葉月里緒菜から黒木瞳に変更されたことだけが話題になっていた記憶があります。でもどうせなら、ついでに監督も降板させて、別の監督を立てるべきだったのです。そうすれば、もう少しはマシな映画になったことでしょう。誤解されたくないのですが、僕は大林宣彦監督が特別嫌いだとか、才能がないとか言っているわけではありません。“阿部定事件”という素材が、映画作家大林宣彦の持ち味とはまったく相容れないものだということを指摘しているのです。これはそもそも、この監督にこの題材をあてがおうとした、松竹側の責任です。

 阿部定事件は、大島渚の『愛のコリーダ』や、田中登の『実録阿部定』など、過去に何度も映画化されている。石井輝男監督の『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』中のでは再現ドラマに加え、存命阿部定本人までスクリーンに登場している。昨年大ヒットした『失楽園』も、原作ではこの事件を大きく取り上げていました。少なくとも「物語」としてはすっかり消費されつくした感のある阿部定事件を、平成10年の今、なぜ映画化する必然性があるのかが、まずは企画の勘所でしょう。ところがこの映画には、そうした時代性がまったく見られない。

 プレス資料には、この映画の脚本家・西澤裕子さんの面白いコメントが載っています。この映画のアイデアは、かつて別の作品の取材中に訪れたハンセン病の療養所に、阿部定がもっとも愛したという慶応の医学生が入院していたことから生まれたそうです。西澤さんはこの時の経験をもとに、従来の阿部定物語を読み替えて行く。幼い頃に出会った慶応の学生への精神的な愛を持ち続けた阿部定は、運命的な恋人吉蔵(映画では竜蔵)との肉体的なつながりに溺れ、飲み込まれる。阿部定の局部切断は、自分をセックス中毒にした男性と、セックスが生み出す快楽に溺れた自分自身への「憎悪」から生じたものだと解釈したのです。医学生にもらったメスで局部を切り取る時、定の精神的な愛と肉体的な愛ははじめてひとつになり、彼女は心の平安を得る……。それが脚本家の書いた、阿部定事件の真相であり、新解釈です。

 この脚本家の解釈が正しいか、面白いかは別として、これが彼女なりの結論であったことは事実でしょう。でもそんなことお構いなしに、万年少年・大林宣彦は、自分の思い描く「阿部定」を映画の中に生み出そうとした。そして彼がなぞっているのは、旧来からの「阿部定伝説」でしかないのです。大林監督は、脚本の決定稿に現場でどんどん手を入れ、自分なりの撮影台本を作ってしまうことで知られています。そんなこととは露知らず、出来上がった映画を観て、脚本家の西澤さんはどう思ったんでしょうね。


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