ドルフィン・スルー

1997/11/25 KSS試写室
監督の伊藤秀裕はKSSで映画を大量に撮りまくっている。なぜだ。
真木蔵人が原案と主演を兼ねた自作自演映画。by K. Hattori



 「プロのサーファーになる!」と宣言して芸能界を一時離れていた真木蔵人が原案を作り、自ら主演した青春ドラマ。彼がこの物語のどのレベルまでタッチしたのかわからないが、脚本も演出も粗雑で、僕は登場人物たちの誰にも感情移入できなかった。真木蔵人が描きたかったポイントはどこなんだろうか。案外「引退したサーファーが古着屋をやってる」という設定だけが、彼のアイデアだったりして……。あるいは阪本順治の『傷だらけの天使』で「あにきぃ〜」と甘ったれた声を出していたのに味を占め、今度は自分が同じように「あにきぃ〜」と呼ばれたくなったのかもしれないけど……。

 資料を見ると、真木蔵人はこの映画の主旨ついて次のように言っている。『東京といういきすぎた社会が生み出してしまった不良たちを描きたかった』『描きたいのは、まずひとつに友情。若い子たちがこの映画を観て、人は一人では生きていけないってことを感じ取ってほしい』『社会に反発するならとことん反発してほしいし、自分の思考や意見というものをもっとしっかりもってほしいというのがメッセージ』。う〜ん、これらの製作意図は、映画の中でほとんど未消化になってるぞ。

 まず、この映画は東京の映画として落第。映画の冒頭に、渋谷の町をスケボーで走りまわる少年の姿が登場するが、彼がどういったルートで走っているのかさっぱりわからない。ずっと坂を下り続けているように見えるけど、少しでも渋谷の地理を知っていれば、あのルートが現実にはあり得ないことがすぐにわかる。本当に『東京』を描きたいのであれば、こうした細かいところで手を抜いちゃ駄目だよ。原田眞人の『バウンスkoGALS』や庵野秀明の『ラブ&ポップ』は、こうした点で絶対に手を抜いていない。あの駄作『TOKYO BEAST』ですら、もっとそれらしく描いていた。『ドルフィン・スルー』は、その点で観客をなめている。

 映画としては、登場人物たちの行動の背後にある「気持ち」が、映画を観ている側にうまく伝わってこない点が致命的欠点。真木蔵人演じる主人公・悟は、なぜ不良から足を洗ったのか。かつての親友であった隼人は、なぜストリートギャングの生活から抜け出せないでいるのか。悟の弟は、なぜ兄にいつまでも甘ったれているのか。隼人の妹は、なぜ安易な援助交際に走ったのか。大杉漣扮する刑事は、なぜ悟を執拗に付け回すのか。それぞれの「事情」は少しずつ説明されている。だがその事情説明には少しの説得力もない。どれもこれも、口先だけの言い訳、その場しのぎのまやかしなのだ。

 説得力がないといえば、個々のエピソードにも不可解な点が多い。その最大のものは、この映画に登場する少年たちが、極端に警察を毛嫌いし、法の規範や社会のモラルを無視してまで、警察を避け続けること。この映画に描かれている事件のほとんどは、適当なときに警察が入れば解決しているよ。脚本は羽原大介。監督は『柘榴館』『狼たちの復讐』の伊藤秀裕。


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