魂を救え!

1997/09/25 東和映画試写室
列車内で手渡された人間の首を巡るミステリー。
アルノー・デプレシャンが描く冷戦後のヨーロッパ。by K. Hattori



 『そして僕は恋をする』のアルノー・デプレシャン監督が、92年に発表した長編第1作。法医学科の学生マチアスが、パリに向かう国際列車の中で税関職員を名乗る男たちに荷物を検査された際、ミイラ状にひからびた人間の頭部を荷物に押し込められる。パリのホテルに入ってからそれに気付いたマチアスは、自分を検査した男たちの身元を調べようとするが、どの役所にもその記録はない。あの男たちは何者だったのか? そして、密かに荷物に押し込められた人間の頭部は一体何なのか? マチアスは頭部を捨てることも、警察に届けることもできないまま、法医学の知識と大学の研究設備を使って、独自に遺体の身元を調べ始める。やがて主人公は、冷戦時代に白熱した政治ゲームの残り火の中に、知らず知らずのうちに入り込んで身動きが取れなくなってくる。

 列車の中で事件が起るという展開。自分に荷物を手渡した男たちが消えてしまい、何の目的で自分に接近したのか、男たちが何者かもさっぱりわからないというミステリー。この出だしだけを観ると、ちょっとヒッチコックふうでワクワクしてきます。ところが、主人公がミイラ化した首を見つけたあたりから、話は変な方向にねじれて行く。観客の知りたいことは「誰が何の目的で、主人公の荷物に首を入れたのか?」だと思うんですが、主人公はそんなことお構いなしに「この首の主は誰か」という謎を解明するために動き始めてしまう。

 おかしいのは、「首を棄てろ」「警察に通報しろ」という周囲の警告を無視して、主人公が首を持ち続けることにこだわることです。どこの誰だかわからない身元不明の人物に名前を与え、人間らしい埋葬をしてやりたいというのが主人公の動機なのか……。サスペンス映画としては、ここで主人公が首を棄てられない理由を、もっと誰にでもわかるように説明する必要があったと思う。僕が観ている限り、主人公は入り込む必要のない泥沼の中に、自ら足を踏み入れているように思えた。本人の希望とは無関係に、いや応なしに主人公を追いつめて行くのが、サスペンス映画のきまりごとだと思うんだけど、そのあたりがちょっと弱いかなぁ……。

 主人公の回りの人間関係や人物配置が面白いんだけど、そこが物語の中心になっているというわけでもない。いろんな要素がごっちゃになって、それぞれが自分の領分を主張しているような映画です。娯楽映画としては、もう少し内容を整理した方がスッキリしたような気もしますが、フランス映画にハリウッド流の作劇術を求めてもしょうがないんでしょうね……。それに、監督の指向は「娯楽映画作家」じゃないみたいですし。

 人間の遺体の一部を手に入れたために、それまで知っていた日常の向こう側にある別の世界に足を踏み入れるという物語は、デビッド・リンチの『ブルー・ベルベット』に影響されているのかもしれません。そう考えると、主人公が首を捨てない理由や、警察に駆け込まない理由がなんとなく理解できそうな気がする。


ホームページ
ホームページへ