ドリフトウッド
硝子の檻

1997/09/12 GAGA試写室
ジェームズ・スペイダーとアンヌ・ブロシェが演じる男と女の寓話。
ブロシェの素晴らしい芝居と存在感にKOされた。by K. Hattori



 ジェームズ・スペイダーはあまり好きな俳優ではないのだけれど、ヒロインのサラを演じたアンヌ・ブロシェがあまりに素晴らしいので、僕はこの映画が大好きになった。おそらくこの映画に登場する「男」はジェームズ・スペイダーでなくても成立すると思うし、仮に別の俳優がこの役を演じたとしても、映画の雰囲気は大きく変わらなかったと思う。でもアンヌ・ブロシェを別の女優に替えるなんて考えられない。この映画は彼女の魅力と存在感で7割ぐらいが占められているので、彼女抜きでこれと同じムードを作り出すのは困難だと思う。

 浜辺に打ち上げられた流木を使って彫刻を作っている女性サラが、ある日浜辺に打ち上げられている若い男を見つけたところから物語が始まります。男は体が弱り、足を骨折し、おまけに記憶まで失っていて、自分がどこの誰なのか、なぜ海で漂流していたのかわからない。サラはそんな男を懸命に看病する。そして、男を自分ひとりで独占しようとする。町外れにある自分の家を「小さな離れ小島の1軒家だ」と偽り、「周囲と連絡の手だてはない」と断言するサラ。男はそんな彼女の言葉を信じる。周囲と孤立した小さな家の中で、必然的に結ばれる男と女。サラは男の愛を信じ、最高の幸福感を味わう。だが男の体の傷が癒え、ベッドから起き上がれるようになると、彼はなんとかして「島」から脱出しようと試みるようになる。「自分がどこの何者なのか知りたい」「島の周りを自分の目で見て確かめたい」。そう主張する男に、サラは「なぜ今この場所にある幸せを大切にしないの?」と詰め寄る。

 登場人物を極端に切り詰めて整理しながら、ここに描かれているのは普遍的な男と女の相違と確執です。男に最後まで名前がないという匿名性が、物語をファンタジックにしていると同時に、男の中にすべての男性が持っている資質を盛り混ませる効果も生んでいる。男には地位も肩書きも何もない。そもそも生活のバックボーンがない。だからこそ、彼の「何がなんでも外へ!」という行動だけが純化される。サラと男の関係は、欲得や駆け引きなどの打算が入り込むことのない関係です。サラの男への「無償の愛」と、そこから逃れようとする男という関係は、そのまますべての男と女の関係に敷衍して行けると思います。

 この映画は「こんなこともあり得るかも……」という最低限のリアリティーを保持したまま、中身は男と女の寓話になっている。女にかくまわれる男が何とかそこから脱出しようとする点で、これを『ミザリー』と比較したり、サラと母親との関係を『サイコ』を引き合いに出して検証することにあまり意味があるとは思えない。ここにあるのは「恐怖」ではないからです。もしサラと男の関係が「恐怖」であるなら、世の中のすべての男と女の関係は「恐怖」だと言えるはずです。

 全編に満ちた緊張感と透明感。その真ん中にひとりで立つアンヌ・ブロシェの中に、僕は女の原形を見ました。


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