素晴らしき日

1997/07/09 FOX試写室
ミシェル・ファイファーとジョージ・クルーニー主演のラブコメディ。
子を持つ親の苦労ばかりが強調されすぎ。by K. Hattori



 ミシェル・ファイファー扮する女性建築家と、ジョージ・クルーニー扮する新聞のコラムニストの出会いを描くラブコメディ。共に結婚に失敗して同い年の子供を抱える二人は、それぞれの仕事に生きがいを見出していて、もう恋いなんていらない、結婚なんてまっぴら御免だと思っている。そんな二人が、よりにもよって仕事が最も忙しい日に子供を学校に預けそびれ、仕事と子供との間で右往左往。互いの携帯電話で連絡を取り合いながら、綱渡りのように1日を過ごす内に、二人の間には強い信頼関係と絆が生まれます。物語は朝から始まり、大騒動の1日を描き、同じ日の夜に終る。その間に二人はそれぞれの仕事で大成功を収め、人生の伴侶も見つけるのだから、まさに「ONE FINE DAY」そのものです。長い人生の中に、こんな素晴らしい日が1日でもあれば幸せでしょうね。この映画はそんな夢を見させてくれます。

 主人公たちが互いに子持ちだというのが、いかにも今風です。20年前だったら「子持ち」という設定だけで、その人は恋から縁遠い人と見なされていたでしょう。バツイチ同士の恋にすんなりと観客が感情移入できるようになったってことは、それだけ世の中が自由になったということなのか、それともバツイチの子連れという存在が観客の身近な存在になってきたということか。いずれにせよ、こうした恋のバリエーションが描けるようになったのは、映画製作者たちにとっては喜ばしいことでしょう。実際に何らかの事情で子連の一人身となった観客にとっても、これは福音だと思います。

 物語の中で主人公たちがどうやって親しくなって行くかという手練手管の部分に、新しさはあまり感じませんでした。むしろ周りの人物や、描かれる風俗のディテールが面白い。「主人公が共に子連れ」というのも、この物語にとっては「今風の風俗」のひとつでしかないと思う。映画の中には、現代ニューヨークの断面を示す様々な要素やエピソードがちりばめられているのですが、それらが必ずしも活きていないのは残念。ニューヨークで暮らす普通の男女の目を通して、街角の風景をもっと生き生きと描き出すことも可能だったはずだし、脚本にはそうした面がうまく書き込まれていると思うんだけどな。

 子連れで職場に行ってテンヤワンヤ……、という映画のねらいはわかるんだけど、これじゃ子供たちが気の毒です。この映画の中の子供たちは、親の仕事を邪魔するトラブルメーカーとしての役割しか与えられていない。「それでも子供を愛している」「子供から受ける迷惑は迷惑の内に入らない」というのは子を持つ親にだけ伝わる約束事。そうでない独身の観客などは、「結婚しても子供だけは作るまい」と思うこと請け合いです。子供は子供なりに親に対して協力的なんだけど、それがすべて裏目裏目に働いて……とか、親たちが必要以上に子供扱いすることからトラブルが……とか、何か工夫がほしかった。物語が古臭いのは構わないけど、「子供は小さな悪魔」という価値観は新しくしてほしかったぞ。


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