愛する

1997/07/07 シネセゾン試写室
浦山桐郎の『私が棄てた女』を知っている人には納得できない映画。
浦山版も同じ日活製作だっただけに失望は大きい。by K. Hattori



 新生日活の第1回作品は、原作遠藤周作、脚本監督熊井啓、主演は酒井美紀と渡部篤郎。今年の邦画メジャーは当たり年で、松竹は『うなぎ』があり、東映には『失楽園』があり、東宝には『誘拐』があった。これで日活と大映が大きな映画をドドンと出してくれると、旧5社がそろって元気で(日活と大映は新社ですが)、日本映画界もまだまだ大丈夫という心強い気持ちになれるというものです。そんなこともあって日活のこの作品には期待したのですが、期待はもろくも裏切られてしまった。

 遠藤周作の原作「わたしが・棄てた・女」は、同じ日活で昭和44年に一度映画化されています。浦山桐郎監督の『私が棄てた女』は、男のエゴイズムをリアルに描いた傑作。主演は河原崎長一郎、小林トシエ、浅丘ルリ子。日活が映画製作再開の第1作目に遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」を選んだとなれば、当然浦山版の『私が棄てた女』と比較されることは避けられないはず。それがわかっていてやるんだから、さぞや自信があるのであろうと思っていたのですが、結果がこれではちょっと残念。意気込みはわかるのですが、映画の中でそれがきちんと消化されていない気がしました。

 熊井啓の新作『愛する』と、浦山桐郎の『私が棄てた女』はまったく別の物語に見えます。しかしこれは紛れもなく、同じひとつの原作から生まれた映画なのです。僕は「どこをどうすればこんなに違ってしまうのだろう」と思って、帰り道に早速原作を買ってきた。まだ読んでいないので、そのあたりの真相究明は後日になりますが、どうやら浦山版は原作にある吉岡努のエピソードを中心に脚色し、熊井版は森田ミツのエピソードを中心に映画を作っているようだ。一番の違いは、浦山版で完全にカットされてしまったハンセン病療養所のエピソードが、熊井版では物語の中心になっていることでしょう。

 『愛する』という映画はひどくいびつな映画になっているのですが、それはこの映画が主人公の成長や心の軌跡を描くことより、ハンセン病(らい病)に対する差別を告発することに重きを置いてしまったからです。脚本も兼ねている熊井監督は、遠藤周作の原作から先輩の浦山桐郎が棄てたハンセン病のエピソードを拾い上げ、かわりに浦山監督が執拗に描いた男のエゴの醜さという部分をきれいさっぱり棄ててしまった。それによって主人公たちを巡るドラマ部分がひどく薄っぺらになってます。

 風俗の描きかたや描写に、ひどく違和感を感じる映画でした。主人公たちが結ばれるのが、ホテルじゃなくて旅館というのも……。連込み宿、温泉マーク、逆さクラゲなどという言葉を思い出してしまったぞ。芝居の付け方もステレオタイプで、時代錯誤すれすれです。男が女を抱きかかえて、笑いながらグルグル回るのをスローで撮るなんて……。再会した恋人たちは木立の中で手を握り合って、やはりクルクル回る。うひゃ〜、恥ずかしい。シーンの継ぎ目で主人公の服装が変わってしまうなど、基本的なミスも目につきました。


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