生きる

1997/05/05 並木座
昭和27年に製作された黒澤明の名作。でも僕は泣けない。
脚本が緻密すぎて気持ちが入り込めない。by K. Hattori



 僕はこの映画を誤解してました。僕は今までこの映画を「説教臭い映画」だと思って、ちょっと敬遠していたんです。何か為そうとしながら、結局弱さから何も為し得ない人間に対して、黒澤が「お前たちは、それでも生きた人間と言えるのか!」と恫喝しているような気がしてた。でも今回改めて観てみると、この映画のラストシーンを単純な説教と解釈するのは間違いだと思いました。むしろ黒澤は、何も為し得ない弱い人間たちを弁護している。人間の弱さを認めた上で、それでも人間に残された小さな、それでいて偉大な可能性を指し示している。黒澤流のヒューマニズムです。

 解釈の間違いは、日守新一演ずる木村の存在が原因です。通夜の席で「渡辺さんのあとに続け!」と息巻いていた役所の連中が、翌日からはまた平凡な役所仕事の中に埋もれてしまう。その時、ただひとり椅子を蹴飛ばして反発したのが木村です。彼の反抗は、周囲の視線に押されて腰砕けになってしまう。僕はこれを、木村の敗北と受け止めたわけです。当然、ラストシーンは敗者が勝者に向ける羨望の眼差しであり、遠まわしに黒澤が「敗者は惨めだぞ。何か為して勝者になれ」と観客を扇動していると受け取った。

 今回改めてこの場面を子細に見たんですが、木村の反抗が終ったようには描かれてませんね。木村は書類の山の中に身を隠したのです。いい機会なので脚本も確認したんですが、この場面は最初、木村の敗北として描かれていた。脚本のト書に、「木村のレジスタンスの精神は、ただいまいましそうに判コで朱肉をこねくることと、その判をやけに書類に叩きつけることだけで終ってしまう」と書かれています。でも実際の映画ではこうはなりません。脚本は変更され「木村の頭は、机の上にうず高く積まれた書類の山の向こうに隠れる。キャメラ、更に下がって書類の山だけになる」となりました。

 木村のいまいましさは他に発散されることなく、木村の中にとどまります。ラストシーンで公園を訪れた木村は、心の中で敗北感を噛みしめる弱い人間ではない。書類の山の中で、いつかそこから這い上がることを誓う人間なのです。もちろん、彼が一生浮かんでこない可能性の方が大きい。『悪い奴ほどよく眠る』を観れば、たぶん黒澤自身、そうした善良な官吏が現れる可能性を信じてはいないことが明白です。それでも、最後の夕焼け空の中に、一片の可能性を信じさせるのが黒澤明の優しさなのでしょう。弱い人間でも、きっかけさえあれば強くなれるかもしれない。その可能性さえも、黒澤が信じていないわけではありません。

 後半の通夜の場面など、じつに精密な脚本になっています。でもあまりによくできすぎていて、僕はそれが感動に結びつかない。ずっとBGMなしで来ていたものが、公園のブランコの場面で突然音楽が入るところなど、絶妙のタイミングなのにね。感動的な場面ではあるけれど、ここで涙が出たことは一度もない。泣けない映画です。


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