ソクラテス

1997/05/04 有楽町朝日ホール
(日映協フィルムフェスティバル'97)
映画初主演・大仁田厚の個性が映画の中で生きてないのは残念。
話はオリジナルだけどセンスが古すぎる。by K. Hattori



 大仁田厚主演の人情アクション。女子高生の「援助交際」など、現代の風俗を取り入れたものの、それ以外の描写が古すぎる。下町の飲んだくれ医者なんて、黒澤の『酔いどれ天使』から進歩してないぞ。昔気質のヤクザの親分が、主人公の男ぶりを見込んで二代目にと願うのも、センスが古すぎる。飲んだくれ医者の美人の娘、計算高い白タクの運ちゃん、したたかな花街の女たちなど、周辺のどの登場人物も、造形が古臭すぎるんだよ。昭和30年代のセンスだぞ。ちなみに脚本は森崎東。

 気が優しくて力持ち、学はないけど仁義に厚い、頭がちょっとゆるくて涙腺もゆるいという、大仁田厚演ずる主人公ソクラテス。この人物に、全然実感がないんだよね。そもそも、こいつが大阪下町育ちに見えるか。串カツ屋で、堂々とソースの二度つけしてる場合じゃないぞ。他の人物でも、大阪の人間に見えない連中が大勢いたな。遠山景織子もそう、組長もその娘も組員もそう、ソクラテスに思いを寄せる女子高生もそう。だいたいこの映画が大阪を舞台にしている必然性なんて、どこにもないんだよね。大阪にしてしまった必然性はわかるんだけどさ。要するに「下町人情物」を作ろうとした時、「庶民の町=大阪」という発想なんだよ。単純すぎるぞ。こうしたセンスって、僕は一種の差別に近いと思うけどなぁ。

 同じような地域を舞台にしてヒットしたテレビドラマ「ふたりっ子」の場合、あの舞台設定にはある種の必然性があったと思うんです。横浜黄金町を舞台にした、林海象の「私立探偵・浜マイク」シリーズにも、そこが黄金町でなければならない必然性がある。簡単に言ってしまえば、町そのものが物語のバックボーンであると同時に、もうひとつの主人公になっている。『ソクラテス』の大阪は、同じような人格を持たされているでしょうか。ここで描かれている大阪は、現代日本では存在し得ない風俗を残す未開の地です。あらゆる野蛮と暴力が、この映画の中の大阪でなら許される。

 こんな無茶な設定も、主人公が魅力的なら許そうという気になるものですが、主人公の造形も同じく出鱈目だから、僕はこの映画にまったくのれなかった。そもそも、この主人公はこの町で何をして食っているのだ。病院の患者を家までおぶっていって、それでいくらの小遣い銭になるんだ。この男は、生活無能者だぜ。しかも性的にも無能者だぜ。ソクラテスは町の人の善意で養われている大きな子供です。その中には無垢なる魂が眠っているらしい。しかし「無垢な魂」を表現するのに、大阪弁の讃美歌を持ってくるセンスにも苦笑してしまった。

 舞台設定や物語が無茶苦茶でも、主人公の造形が出鱈目でも、例えばアクションシーンが面白ければ、映画って少しは許せるじゃないか。でも残念ながら、この映画にはそれもないんだよね。全編見るべきところがまったくないのに、それでも最後まで見せられてしまうのは、脚本の構成やエピソードのつなぎが、それなりにうまく機能しているからかな。


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