丘は花ざかり

1997/04/25 イマジカ・第3試写室
昭和38年の日活映画。主演は浅丘ルリ子。監督は堀池清。
物語はそのまま現代に移せそうな新鮮さ。by K. Hattori



 昭和38年の日活映画。石坂洋次郎の原作を才賀明が脚色。監督は堀池清。出演は浅丘ルリ子、二谷英明、川地民夫など。今回は堀池監督が御自身のプロダクションを発足なさることを記念して、ニュープリントでの試写会となりました。上映中にフィルムの架け替えが途切れるなどのハプニングもありましたが、画像音声は極めて明快。今から30余年前の映画とは思えないほどピカピカ輝くフィルムに、思わずため息が漏れました。

 「ぴあシネマガイド」を見て気がついたんですが、この映画の原作は昭和27年にも東宝で一度映画化されています。僕が持っているのは95年版で少し古いんですが、昭和38年に「吉永小百合主演でリメイク」と書いてある。吉永も浅丘も同じ日活だから、同じ会社で同じ年に同じ原作を競作するとは考えられない。これは「浅丘ルリ子主演」の間違いでしょう。

 今回堀池監督版を観ていても思ったんですが、登場する人物の輪郭や配置がそれぞれ明快なので、人物だけ借りて風俗を現代風に直せば、これはそのまま平成9年の映画にもなると思いました。会社の同輩や上役にずけずけ物を言う主人公の姿は、現代の目から見ても痛快だし新鮮。結婚に縛られることなく、仕事の上でのキャリアを目指したい、今は仕事が面白くて仕方がない、という彼女の気持ちは、昭和38年よりも、むしろ現代の女性観客に強く共感できるのではないでしょうか。

 僕は映画の最初から「これをどうすれば現代風にアレンジできるだろう」と思いながら観ていました。30年前と現代では性に対する感覚が違いますから、このあたりの描写はもうすこし踏み込む必要があるでしょう。でもこんなことはディテールの問題でしかありません。最も気になったのは、主人公が中年の編集長と年若の同僚とを天秤にかけ、最終的に同僚を選ぶくだりでしょう。

 編集長の二谷英明が浅丘ルリ子にヤドカリのたとえ話をするする場面が、この映画のクライマックスでしょう。彼女が自分で何の努力をすることもなく、出来合いの家庭に収まろうとしている、というのが「主人公=ヤドカリ」という主張の論旨ですが、僕はこれを言い訳だと思いました。編集長は自分に自信がなくて、若い浅丘ルリ子から逃げたんです。

 ヤドカリは身体の成長に合わせて、背負っている貝殻を取り替えます。編集長の家庭は主人公にとって、今は居心地のいい場所かもしれない。でもそれは一時のこと。若い彼女がこれから成長して行けば、そんな出来合いの家庭は手狭になってくる。年配の編集長は、彼女の成長に合わせて生活のスタイルを変えることができないはずです。必然的にヤドカリである彼女は背負っている貝殻を脱ぎ捨て、別の貝殻を探すことでしょう。編集長は大人だから、そこまで見通しているんです。というより、そこまで見通していたことにしないと、この編集長はただの説教臭いオヤジになってしまう。昭和38年のこの映画を誰かリメイクするなら、そこまで考えてくれ。


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