パピヨン

1997/03/31 シネ・ラ・セット
『大脱走』でナチの捕虜収容所から脱走したマックイーンが、
今度はギアナの刑務所から脱走を企てる。by K. Hattori



 収監されたら二度とは生きて戻れないフランス領ギアナの刑務所から、執拗に脱獄を繰り返す男パピヨン(スティーブ・マックイーン)と、彼と固い友情に結ばれた相棒ドガ(ダスティン・ホフマン)。ジャンルとしては「刑務所物」「脱獄物」になるのだろうが、この映画では対照的な二人の男の出会いと別れを描いた部分が感動的。主人公パピヨンの不屈の意志と精神力も印象的だが、これは赤狩りでハリウッドを追放されたこともある、脚本家ダルトン・トランボの面目躍如というところだろうか。おそらくパピヨンの執念はトランボの執念だろうし、パピヨンの意志の強さはトランボのそれに通じるのです。生き抜いていつか自由になるのだという切実な願いを、トランボはパピヨンの生き方の中で甦らせたのでしょう。(トランボ自身はこの映画の2年前に『ジョニーは戦場に行った』という大ヒット作を撮っています。)

 犯罪者を処罰するための刑務所とは言え、あまりにも劣悪で過酷な刑務所暮らし。本国から遠く離れた植民地は、刑務所というより流刑地に近い。8年以上の懲役刑を課せられた受刑者は、刑期を終えたあとも入植労働者として強制労働に従事させられるのです。受刑者のなかで意志の弱いもの、体力の劣ったものから順に脱落し、死んで行くことになります。脱走を企てたものは2年間の独房暮らし、再度の脱走でさらに5年の独房生活、それでも懲りずに脱走しようとすれば、問答無用でギロチン死です。無実の罪で投獄されたパピヨンは、それでも自由を求めて脱走を繰り返す。

 パピヨンの脱走は、劣悪な刑務所や労働から逃れるためではありません。彼が得ようとしているものは、魂の自由なのです。だから彼は、脱走にまつわるリスクを恐れない。捕らえられた後も、拷問的な独房生活に耐え抜くことができる。もし彼の脱走が「苦痛や危険からの逃避」だけを目的としたものであったとしたら、彼はこうした扱いに耐えられなかったでしょう。映画は彼が最後の脱走に成功し、残りの人生を「自由人として生きた」と締めくくります。でも彼はそもそもはじめから、魂だけは自由だったのだと思います。

 相棒ドガが最後の脱走をあきらめてしまうのは、彼に勇気がなかったわけではないし、弱かったからでもないと思う。ドガは島でのささやかな暮らしの中に、心の平安を得ているのです。島を抜け出した先にある自由に、彼はもう興味がないのでしょう。彼がパピヨンを羨望の眼差しで見るのは、パピヨンが得る「自由」を羨んでのことではない。ドガはパピヨンの持っている「魂の強靭さ」に触れて、そこに自分とパピヨンとの違いを悟るのです。それは映画を観ている側も同じ思でしょう。

 もはや危険や苦痛のない島の暮らしから、何がパピヨンを脱走に駆り立てるのか。それはパピヨンの魂が、人から強いられた暮らしを欲していないからです。たとえ死んでしまったとしても、自分の生き死には自分で決めるという決意が、パピヨンの魅力であり強さなのです。


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