フェティッシュ

1997/03/04 銀座シネパトス3
クエンティン・タランティーノがプロデュースした殺人コメディー。
楽しい映画だけど最後のオチには釈然としない。by K. Hattori



 『フェティッシュ』というのは邦題で、もともとのタイトルは「CURDLED」。辞書によれば、CURDLEには一般的な「凝固する」という意味と、恐怖のあまり「血が固まる」という二重の意味があるらしい。「血も凍る惨劇」などという場合の「血も凍る」の部分が「CURDLE」なんでしょうか。ともあれ、映画ではこの二重の意味をうまく掛け合わせてます。

 主人公は少女時代に目の前で殺人事件を目撃したことがきっかけで、殺人マニアになってしまったガブリエラ。殺人マニアと言っても、自分で殺人をしようというのではありません。殺人事件の新聞記事をスクラップブックに貼り付けては、殺しのディテールを想像して楽しむようなタイプです。日本でも最近「週刊マーダー・ケースブック」が売れたりしてますし、ガブリエラみたいなタイプは決して珍しくはないですよね。

 彼女はこの趣味を実益に結び付けようと、殺人現場専門の清掃会社に就職します。活字の向こうにある殺人を想像するのにあき足らず、本物の殺人に一歩でも近づこうという一途な探求心のなせる技。時はあたかも世間を騒然とさせている「女性資産家連続殺人」の真っ最中。ガブリエラの会社にも、事件現場の清掃作業が割り当てられます。主人公が現場の担当を志願したことは言うまでもありません。

 連続殺人の犯人を演じるのは、『バックドラフト』や『フェア・ゲーム』のウィリアム・ボールドウィン。現場に何の証拠も残さず、警察をきりきりまいさせてきた彼ですが、4件目の殺人で迂闊にも現場に証拠を残したまま逃走する羽目になる。証拠の隠滅をはかろうとする犯人と、清掃会社勤務の殺人マニアが、こうして出会うことになるわけです。……と、ここまではプロローグ。

 映画の見所は、現場で出会ったガブリエラと犯人の会話や駆け引きにある。一方は実際の殺人犯、一方は殺人マニア。二人が現場を前にして演じる殺人の再現劇。ガブリエラは自分の身に降りかかっている危険より、自分が殺人現場に限りなく肉薄している喜びに目が輝かせる。犯人もまた、自分の密やかな楽しみに対する理解者を得て、言葉にも熱が入る。二人は同好の士なんですね。会話はいつしかガブリエラが犯人にインタビューをしているような形になり、会話と駆け引きの主導権はすっかりガブリエラのものになってしまう。

 殺人は当事者たちにとっては悲惨な出来事だが、部外者である第三者にとっては喜劇であることだってある。例えば、コーエン兄弟は『ファーゴ』でそれを描いてました。殺人を実際に犯すことと、殺人を面白がることとの間には天と地ほどの開きがあると思うんです。でもこの映画は、その差を平気で踏み越えて、両者を同一線上においてしまう。その強引さが映画の芸の見せ所なんだけど、やっぱりちょっと強引すぎるような気が僕にはした。最後のオチはしつこすぎます。エンドロールの後のオマケにいたっては、ちょっとくどすぎて余計です。


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