欲望の翼

1997/01/25 高田馬場東映パラス
結局この監督って何作っても話のパタンが同じなんだよね。
1990年、ウォン・カーウァイ監督の出世作。by K. Hattori



 『恋する惑星』や『天使の涙』で大人気のウォン・カーウァイ監督が、90年に撮った青春ドラマ。撮影はクリストファー・ドイルだけど、『楽園の瑕』以降頻繁に現れる特徴的な映像は、まだここに見られない。広角レンズを使った撮影で、密着した人物をすごく離れた距離に見せたりするのが印象的だった。普通の映画の感覚で観ていると、当然2〜3メートルはありそうな距離で、直接ものを手渡したりするからびっくりしてしまった。あれだと撮影カメラは演技している役者の鼻先にあるはずで、芝居がやりにくくないんだろうかと、変なところが気になってしまった。

 昨今のウォン・カーウァイ人気は、彼の映像センスによるところも大きいと思う。だがこの『欲望の翼』はそうしたトリッキーでケレン味あふれる映像が見られない分、ウォン監督の物語作りの特徴がよくわかる。結局、ウォン・カーウァイの映画でいつも描かれているのは、人と人とが出会い、すれ違って行く様子だ。

 彼の映画の中では、人間同士がぶつかり合って四つに組むということがないんだよね。人物同士の正面からの対決を描くべき剣戟映画『楽園の瑕』ですら、登場人物たちは全員がすれ違い、交差し、再びあいまみえることはない。『恋する惑星』や『天使の涙』でも、それは基本的に同じです。彼らはすぐ隣にいる愛する人を、つなぎ止めておくことができない。人間同士が拘束しあうことなく、いつもフワフワした関係を保っている。そうした人間の描きかたが、とっても今風なのかもしれない。

 『欲望の翼』の主人公は二人の女に愛されながら、自分は彼女たちを愛するそぶりを見せない。彼にとって、女から愛されることは重荷なのです。しかしその一方で、彼は自分の生みの親を必死になって探していたりする。一方で人から逃れ、一方で人を求める様子は、よく言われる「やまあらしのジレンマ」そのものです。人間はこうした関係にどこかで折り合いをつける必要があるんだけど、それが出来ない主人公は命を落とすことになる。

 これは『天使の涙』の殺し屋カップルにも通ずる、この監督の映画の個性です。人間関係をクールに整理しようとすると、その人間は破滅するんです。むしろ相手に嫌われようが、失恋しようが、自分が傷つこうが、相手を離さない努力をした方がいい。映画の最後に、女のひとりがフィリピンまで主人公を追いかけてきます。彼女はこの映画の中で、ひょっとしたら一番かっこいいよ。彼女は自分が傷つくことを恐れていないもんね。

 映画は中盤までの香港を舞台にした部分が面白く、主人公がフィリピンに移る終盤はややシャープさを欠く。魅力的なディテールが消し飛んで、物語だけが駆け足になってしまいます。カメラの視点が次々変わって、落ち着きのない絵になってしまうんだよね。

 時代背景についての説明は一切ないんだけど、音楽や衣装、美術などでちゃんと60年代風に見えるところは偉い。中でも音楽の使い方はうまいと思う。


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