日本の悲劇

1996/09/28 並木座
東京から戻ってきた恋人の愛情に若い未亡人の心は揺れる。
木下恵介の昭和30年作品。by K. Hattori


 戦後の混乱期に、女手ひとつで二人の子供を育て上げた母親。母親にとって息子と娘は自慢の種だが、育てられた当人たちは親の心子知らずで、自分たちだけで苦労して大きくなったような顔をしている。それどころか、母親を恥じている、疎ましく思っている、憎んでいる。母親を駄目な人間、だらしなくふしだらな女だと思っている。母親が自分たちを育てるのは当たり前だが、自分たちが母親の世話をする義理はないと思っている。母親の無私の愛情を、老いたときに自分たちに世話をして欲しいからだと思っている。だからそんな愛情に苛立ち、逃げ出したい。自分たちは勝手に生きていくから、母親も勝手にしてくれと放り出す。捨て去る。

 映画が作られたのは昭和28年。戦後の青空学級や穴の開いた校舎での授業風景、バラック暮らし、闇米の買い出しなどが、母親や子供たちの回想として挿入されるが、してみるとこうした風景は昭和30年前後にはほぼ一掃されたらしい。自分たちの辛い体験ではあるが、そうしたどん底の生活はとうに脱出し、今(昭和28年)の暮らしには多少のゆとりが見える。姉弟は自分たちの金で寿司を食うことができる。姉は母親の渡す金で生活し、自分のアルバイトの金はしっかり貯金。4万円の蓄えがある。洋裁を習い、英語の塾にも通っている。もちろん、平成8年の現在に比べれば、その暮らし向きもつましいものではあるのだが。

 戦後の授業風景で、教師が「君たちは今までだまされていたのだ」と言うと、生徒が教師に「先生も今まで私たちをだましていたんですか」とたずねる。それに対して「先生たちもだまされていたのだ。これからはだまされないように皆で勉強しよう」と臆面もなく応える教師。それを冷ややかなまなざしで見つめる子供たち。教師の権威はここに失墜した。

 戦後急速に普及した民主主義の暴力的なまでの破壊力に、日本中が戸惑っている様子が面白い。「民主主義ってのは皆が平等ってことでしょ。だから僕も会社の上役も平等だって言ってやったんだ。上役にいばる権利なんてないんだ。それが民主主義でしょ」と電車の中で酔って話すサラリーマン。それはどこかおかしいが、どこがどうおかしいのか誰も反論できない。ただニヤニヤその弁舌を聞いているだけ。全ての上下関係が民主主義の名において均され、その中で親子の関係もひとりの人間同士という形に解体されてしまう。親も子供も皆平等。等しく自分自身の幸福を追求する権利がある、と言われたとき、子供は親を憎むようになったのだ。

 母親を演じた望月優子の存在感。母親に冷たい視線を向ける娘・桂木洋子。その不倫相手である英語教師・上原謙。その妻・高杉早苗の悪妻ぶり。しかし一番印象に残るのは、母親と同じ旅館で働く若い板前・高橋貞二だったりするのですね。重苦しい映画の中で、この板前の存在が、どれだけ映画を明るいものにしたかわからない。板場の描写になると、ちょっと一息つけます。


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