ドゥーム・ジェネレーション

1996/07/28 シネ・アミューズ イースト
銃で人を撃つことより、道端で犬を轢き殺す方が悲しい主人公たち。
残念ながら僕には面白いと思えなかった映画。by K. Hattori


 こういう映画はニヤニヤ、あるいはクスクス笑いながら観ているしかない。話の筋立ては極めて単純だし、道具立ては極めてチープ。ならば役者の魅力で見せなければならないのだが、僕は登場人物たちの誰にも感情移入できない。二人の男に愛される女エイミーを演じたローズ・マクガワンはなかなか魅力的だが、僕は彼女の表情と話し方が最後まで好きになれなかった。気の弱そうな男ジョーダンを演じたジェームス・デュバルは存在感のある俳優だと思うが、なぜかこの映画の中では弾けそこなった感じ。粗暴さを売りにしている男ゼイヴィアを演じたジョナサン・シェーチも、芝居にスピード感がない。とにかく全体にひどくモタモタした印象の映画なのだ。とにかく僕はこれにノレない。となれば、細部の小さなギャグや描写にいちいち笑っているしかないではないか。

 テンポの悪いこの映画がどうやらギャグらしいと気がついたのは、深夜のコンビニでゼイヴィアが韓国人店主を射殺し、吹き飛ばされた生首がスキャットを歌う場面から。主人公たちが逃げた後、錯乱状態になった店主の妻は子供を次々と射殺した後自殺。警察が駆けつけた時、生首はまだしゃべり続けていたという。この馬鹿馬鹿しさ。事件を告げるテレビニュースも、どこかいかれた騒々しさだ。これをギャグととらずに何ととる。

 この事件に象徴的なように、この映画の中の現実は我々の持つ現実とは別のもの。映画の作り手はこの次点で、この物語が我々の日常とは別の世界に存在する完全なフィクションだと宣言したようなものだ。ただし完全なフィクションという仮面の下から、時折生々しい現実が浮上してくるのがこの映画の怖さ。例えばそれは車ではねた犬を殺すシーンだったり、ジョーダンが巨大なはさみで局部を切断されるシーンだったりするわけです。こうしたエピソードを経て、残された二人は完全なフィクションの世界から我々と同じ現実世界に押し出されてくる。それまでテンポの悪いギャグだと思われていた数々の事件が、突然リアルな現実へと変貌するのです。

 ひとりの女が二人の男を性的パートナーにしての逃亡劇というのが中心になる筋なのだが、このあたりはもう一歩踏み込みが足りないように思える。少なくとも周辺部の雑多なエピソードの集積に比べ、中心たるこのエピソードは弱い。この3人の関係が、不安定な形から徐々にそれだけで完成された新しい男女関係として成立してゆく様を、もう少し丁寧に描いてくれると面白かったと思う。映画のエピソードでは、エイミーとジョーダンのカップルにゼイヴィアが割り込んで三角関係になり、そこからジョーダンがはじき出されてしまったようにも見えるもんね。こうなると、最後の喪失感が希薄です。

 主人公たちが買い物をするたびに、必ず「6ドル66セント」を請求されるのは、ご存知新約聖書の黙示録から引用したものでしょう。666は悪魔を象徴する数字ですから、彼らの旅は小さな「最後の審判」だったというわけです。ずいぶんとチャチなハルバゲドンですこと。


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