野獣教師

1996/07/21 松竹セントラル1
『山猫は眠らない』のトム・ベレンジャーが教師になって復活。
元傭兵が高校の麻薬汚染を徹底的に叩きつぶす痛快作。by K. Hattori


 『山猫は眠らない』のトム・ベレンジャーが、傭兵から高校教師に転職した主人公を熱っぽく演じて説得力ありすぎ。恋人である教師が校内の不良グループに襲撃され負傷したことがきっかけで、失業中のベレンジャーが学校に乗り込むという設定は強引。だがこの強引さは、あまりにも生々しい教育現場の惨状を、何とかエンターテイメントに仕立てるための手続きなのだ。

 映画の中に登場する高校や高校生たちの描写は、たぶん現実の姿の忠実な写し絵だろう。街にはびこる貧困と暴力の中で育つ子供たち。麻薬と銃とギャングたちは、彼らの手の届くところにある。若くして母親になる少女、父親になる少年。圧倒的に低い教育水準。学校の窓には金網が張られ、入口には金属探知器、校内には警備員。学校は爆発寸前の若いエネルギーを閉じこめておく、牢獄のような場所に見える。

 ベトナムでの従軍体験を語る主人公に対し、自分たちも銃で撃たれたことがあると傷口を自慢する子供たち。ギャングとして刹那的な人生を送ることにあこがれる彼らに、主人公はただ「ギャングの末路は死だ。君たちは自分たちの子供にもそんな生活をさせたいのか。どんなに辛くても生きのびるんだ」と言うしかない。この「生きのびる」という言葉はすごく重いんだけど、この台詞を言うのが元傭兵だから余計にこの言葉は強く観客の胸に届く。ここには「現状を打破するためには勉強して偉くなりましょう」「僕たちの手で社会を改善して行きましょう」的な教条主義がない。逆に言えば子供たちにとって今や、「生きのびる」という生命にとって基本的なことすら困難になっているってことです。

 主人公が子供たちにただ「生きのびろ」と言うことに象徴的なのだが、今や大人は子供たちに対して明確な行動の指針を与えることができないし、旧来のモラルで子供たちをしばることができない。昔は教室で騒ぐ生徒を鞭で殴ればよかったが、今はそれなしに、教師の情熱だけが教育現場を支えている。子供も教師も、無原則で無秩序な世界に放り出されている。

 そんな中で大人たちできるのは、せめて子供たちの足を引っ張るまい、という消極的な選択だけだ。主人公の行動の背景には、その最低限のモラルに反した大人たちに対する怒りがある。この映画は最初から最後まで徹底してアクション映画の定石通りに進んで行くが、メッセージは単純明快。それは「子供を食い物にする大人は許さない」ということだ。

 大人は子供に余計な口出ししない。偉そうに説教したり、教え導いたりしない。教師は自分を「よき大人」の見本になんてしない。いく度も暴力と挫折の時代をくぐり抜けてきた大人は、子供に偉ぶる資格なんてない。次の世代を担う子供たちを長い目で見守りながら、駄目なものは駄目といさぎよく切り捨てる。おためごかしの人権主義より先に、大人たちにはまだやらなければならないことが多い。活劇の底に思想が見える力作。


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