暴走特急

1996/01/23 丸の内ルーブル
高速に移動する列車の中で繰り広げられる国家の存亡を賭けた戦い。
セガール演ずる「炎の料理人ライバック」シリーズ第2弾。by K. Hattori


 それにしても映画会社はおかしなことをする。宣伝コピーで「シリーズ最新作」なんて言っても、タイトルがこれでは何の最新作なんだかよくわからないではないか。それというのも、ヒット作『沈黙の戦艦』にあやかって全然関係ない映画に『沈黙の要塞』なんて紛らわしいタイトルをつけて公開したからだ。今回の映画は原題が"UNDER SIEGE 2"。隠れ大阪人スティーブン・セガールが無敵の武闘派料理人ライバックを演じる、待ちに待った『沈黙の戦艦』の正式な続編だ。(ところで、スティーブン・セガールの名前って、セガール/セーガル/シーガルといろんな読まれ方をしているようですが、どれが公式な日本名なのでしょうか。)

 このシリーズは基本コンセプトが密室で繰り広げられる肉体アクションにあり、詰まるところは『ダイ・ハード』と同じ路線。前作では舞台として外界から隔絶された洋上の戦艦に材を取り、今回は同じく外界から隔絶された大陸横断鉄道の中が舞台となった。列車の中での活劇は基本的に室内劇で、海の上ほど画面にスケール感が出せない。そこでいかに大画面の派手なアクションを見せるかが、演出側の腕の見せ所になるのだが、今回の映画では残念ながらそのあたりがうまく行っていなかった。空撮のショットを多用して、疾走する列車を外部からとらえた場面をもっと挿入するべきだったのではないだろうか。カメラが列車に密着しすぎで、周囲から切り離された雰囲気もあまり感じられなかった。結局それが、主人公の孤立無援ぶりを際立たせることに失敗しているのではないだろうか。

 お話の方は冒頭から少しゴタゴタした印象で、特に人物の出し方が未整理。重要な人物とそうでない人物の描き方が全く同じで、それぞれが等しく思わせぶりな芝居を見せるあたり、観客は誰に注目していればいいのか混乱する。これはもっと人物を絞るべきだった。人物の処理は前作『沈黙の戦艦』に遠くおよばない。

 この映画を観て強く感じるのは、健全なエロス的価値観による命の重さの違いである。健康なアメリカ人にとっては、中国で死ぬ百数十万人より、アメリカの首都で死ぬ数十万の方が大切だし、その中でも大統領や自分の家族が最優先される。主人公も同様で、列車の人質200人の中では、誰よりも自分の姪が大切なのである。見ず知らずの赤の他人が百人死ぬことより、自分の肉親が1人死ぬことの方が遥かにこたえるのが人間だ。個人個人の立場によって、人間の生命の意味は確実に違うという当たり前の事実が、この映画の世界を支えている。おそらくビーム兵器の最初の標的が東京であったとしても、アメリカの観客にとっては中国の百数十万人と同じ程度の意味しか持たないに違いない。


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