エド・ウッド

1995/10/11 シャンテ・シネ3
実在した史上最低の映画監督エド・ウッドの伝記映画を、
ティム・バートンが共感を込めて描いている。by K. Hattori



 モノを作る情熱というものは、ある種の才能と言えます。どんなに優れた感性を持っていても、どんなに秀でた技能を持っていても、そこに情熱がなければ人は一流の芸術家にはなれないのです。使徒パウロが「愛」と名付けたものに、それは似ています。パウロは信仰と希望と愛の中で、もっとも重要なものは愛だと断言しましたが、こと芸術作品に限った話をすれば、情熱だけでは芸術品を作り得ないこともまた事実。この映画は、情熱だけで芸術作品を作ろうとした男の悲喜劇を描いています。

 この映画の主人公エド・ウッドは、明らかに才能の欠落した映画作家です。でも、彼がモノを作ろうとする情熱だけは本物。触れると火傷しそうなほどに熱い創造欲だけはあるものの、それを情熱に見合っただけの具体的な形には定着できない人間なのです。彼にはモノを見る目が全くない。良いモノと悪いモノとの区別が付かない。彼が普通の感覚を持ち合わせていれば、自分が作りたいモノと自分が作ってしまったモノとの乖離に悩むなり、何らかの技能や技術を身につけようと努力するなりするはずです。でも、彼はそうしない。彼は結構自分の作ったモノに満足しているのですね。ただ、それが周囲には理解されない。これは感性の問題ではなく、単に技能の問題なんだけど、彼にはそれがわからない。何しろ、彼は自分をオーソン・ウェルズと比較してしまうような人間なのです。

 彼は周囲がどうそれを評価しようと、自分自身の仕事を愛している。仕事に打ち込み、のめり込むだけの情熱を持ち続ける。それだけが彼の才能です。この情熱という才能が、彼の周りに人を惹き付け、この映画を観る観客に好感を持たせる原因になっているのですね。世の中には彼以上の才能を持ちながら、自分の仕事を愛せない、仕事に情熱を持てない人間がいくらでもいます。エド・ウッドは映画監督としては最低だったかもしれないけれど、彼の持っていた情熱はまぎれもなく一流でした。

 個人の中に眠る才能という宝石は、情熱という布で磨いてはじめて光を放ちます。でも、誰もが宝石を持っているわけではない。磨いても磨いても、ただの石ころは石ころのまま、一文の値打ちもありはしない。でも、人は自分の中に極上の宝石があると信じて、自分自身を磨くのです。たとえそれが徒労に終わったとしても、そのために汗をかく姿は素敵だってことを、この映画は訴えているのかもしれません。職業としてモノを作る現場に携わっている人間としては、エド・ウッドにあやかりたいものです。

 映画の中では、ベラ・ルゴシ役のマーチン・ランドーにしびれました。池で撮影をする場面で「フランケンシュタインの話は私にも来ていた」と語るくだりにはホロリ。アカデミー賞も納得の名演技です。


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